お役立ちコラム お墓の色々

お役立ちコラム お墓の色々

- 供養をきわめる -

【キングダム】万里の長城を建設?!秦将蒙恬のお墓はどこにある?

墓地・墓石コラム

アニメ第6期の放送が決定し、ますます注目を集めている「キングダム」。紀元前の中国を舞台にした歴史物語で、そのスケールの大きさや物語の重厚さからファンも多い作品です。戦乱の時代に生きた主人公、秦将・李信(りしん)の姿を通して、のちに始皇帝となる秦王・嬴政(えいせい)が中華統一へと歩む過程を描いています。壮大な戦いの描写や群雄たちの知略、国家の興亡といった史実を背景にした物語は、歴史作品としても高く評価されています。

李信と共に中華統一に貢献し、統一後も北方を安定させた秦の武将、蒙恬(もうてん)という人物がいました。その生まれや詳しい経歴などは謎ですが、秦の大将軍・蒙武(もうぶ)の息子で、名だたる秦将の中で中華統一後の活躍が唯一記録されている人物です。

キングダムでは李信、王賁(おうほん)と同世代で、あるときはライバルとして、あるときは頼れる友とし描かれている蒙恬。

今回はその活躍と、蒙恬のお墓がどこにあるのかも交えご紹介していきます。

※今回の記事は「史記」または「蒙恬列伝」に基づいたもので、キングダムと異なる見解が含まれる点もございます。ご了承ください。

秦を支えた蒙一族

元々蒙家は斉(せい)の出身であり、蒙恬の祖父である蒙驁(もうごう)が斉から秦へ移り住み、昭王に仕え、将軍へと上り詰めました。紀元前249年、蒙驁は秦の将軍として韓を攻め、成皋(せいこう)や滎陽(けいよう)を奪って秦の領土を拡大、その後も趙攻めで37城、韓攻めで13城を奪うなど快進撃を続け、紀元前244年 には魏を攻めて20城を攻略し、東郡(とうぐん)を設置しました(キングダムでは、この戦いに蒙恬や王賁、李信が参加していますが、実際は定かではありません)。

そんな蒙驁の孫にして、後に楚を攻略する大将軍・蒙武の息子である蒙恬は、その家柄や頭の良さから将来を期待されていました。当初は文官として登用されるもその出自や優秀さを買われ、紀元前223年、李信の副将として戦場へ。勇猛果敢に楚を攻めるも、楚の名将・項燕に敗れてしまいます。しかし、李信と蒙恬はそこでくじけることなく、後を引き継いだ父の蒙武と智将・王翦が楚の攻略を成し遂げた後、最後の1国である斉(せい)を王賁とともに三将で攻め落とし、秦の悲願である中華統一を達成します。

紀元前221年、秦王政が中華統一を成し遂げると、蒙恬はさらに重要な任務を与えられます。それが、始皇帝の信じた「とある予言」にて秦を滅ぼすものとされた北方の匈奴の討伐の任でした。紀元前215年、30万の大軍を率いて北へ進軍した蒙恬は、激しい戦いの末、趙の救国の英雄・李牧以来の快挙となる大勝を成し遂げ、オルドス地方を奪い、匈奴を大きく後退させます。この戦いによって秦は黄河の湾曲部、いわゆる「河套(かとう)」地帯を自国領とし、北方の安定を実現しました。

さらに蒙恬は軍事だけでなく、建設事業にも力を発揮しました。紀元前214年には始皇帝の命を受け、万里の長城の築造を指揮します。これはそれまで燕や趙、秦がそれぞれ築いていた北辺の城塞を結びつけ、新たに長大な城壁として整備するものでした。同時に、咸陽から北方へと至る「直道」と呼ばれる広大な道路の建設も行い、中華統一後も大功を成します。

兄・蒙恬の活躍によってその弟である蒙毅(もうき)もまた始皇帝に重用され内政面を担当し力を発揮します。外征を担当する蒙恬と内政を担当する蒙毅。二人の忠臣の活躍に支えられ、秦は最盛期を迎えるのでした。

しかし、蒙恬の人生は急転直下の悲劇に見舞われます。紀元前210年、始皇帝が死去すると、宦官の趙高が権力を握り、皇位継承をめぐる陰謀が渦巻きました。蒙恬や弟の蒙毅はその忠義ゆえに趙高(ちょうこう)と李斯(りし)に敵視されてしまいます。まず弟の蒙毅が無実の罪を着せられ処刑されると、その責を兄の蒙恬も問われ、自害を命じられました。蒙恬は潔くこれを受け入れ、その生涯を閉じました。

蒙恬のお墓はどこにある?

蒙恬のお墓ですが、陝西省綏徳県西から500mにある第一中学校の敷地内にあります。墓は饅頭のように丸みを帯びた形をしており、高さおよそ30mの小山のようにそびえています。元々は50mほどの高さがあったそうですが、風雨によって削れてしまい、今の高さになったと言われています。

墓前には「秦将軍孟天墓」の銘がある石碑が建てられています。

さらに、2017年8月には蒙恬の子孫たちがこの地で先祖を偲ぶ式典を行いました。その際には、清朝時代に建立された石碑を修復したほか、香炉や虎をかたどった石像一対も新たに設置しました。

実はこの場所は、蒙恬が服毒し自害した場所とされています。亡くなったその場所にお墓を建てるというのは当時でも大変珍しいことであったとされています。

※蒙恬のお墓に立ち入る際には、学校の許可が必要となります。

【蒙恬墓】中国 綏徳県绥德县城西大理河畔

まとめ

蒙恬は若き将として中華統一に貢献し、統一後も匈奴を撃退して北方の安定を築くなど、大変優秀な将軍でした。さらに文武両道に秀でた人物であり、始皇帝からの厚い信頼を受けていました。最後には宦官である趙高や丞相・李斯の謀略に巻き込まれ、一族ともに非業の死を遂げてしまいまが、その功績は今なお中国にて「長城を築いた将軍」や「忠義の士」として語り継がれています。

蒙恬のお墓は遠く離れた中国にあるため気軽に訪れることはできませんが、実際に足を運んでお参りをすると、どんな思いを胸に若き将として嬴政の悲願である中華統一を支え、数多の戦場を駆けぬけ、統一後の偉業を成し遂げたのか。その熱い想いを感じ取ることができるかもしれません。

また、すぐ近くには蒙恬と同じく趙高と李斯の陰謀によって自害することとなった始皇帝の長男、扶蘇(ふそ)のお墓もあります。ぜひ足を運ばれてみてはいかがでしょう。

お墓は受け継がれる想いや絆があふれ、過去の偉人が遺したその功績までをも感じ取れる場所。そして、一緒に訪れた人との語らいの時間をもたらしてくれるのがお墓参りです。教科書や作品でしか知らない有名人・著名人ですが、お墓を巡ることで、実際にその人が生きていた時代を感じることができるのではないでしょうか。

マナーに十分に注意した上で、いろいろなお墓に参ってみてはいかがでしょう。

【保存版】お墓参りのマナーや常識 5つのポイント

古くて新しい?お墓を巡礼する墓マイラーとは

キングダムに関連する記事は他にもございますので、合わせてご覧ください。