お役立ちコラム お墓の色々

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【吉宗の懐刀】大岡越前守忠相のお墓はどこにある?

墓地・墓石コラム

時代劇などで数々の俳優が演じた名奉行・大岡越前守忠相(おおおか えちぜんのかみ ただすけ)(以下忠相)。江戸時代中期、八代将軍・徳川吉宗の治世に町奉行を務めた忠相は、「公正無私」の裁きで知られています。

享保の改革が進められる中、倹約や法の厳格化によって市井の暮らしが揺れる中、忠相は 権威に屈することなく、かといって杓子定規に陥ることもなく人の情や事情をくみ取った裁きを行ったと伝えられています。いわゆる「大岡裁き」と呼ばれる機知と公平さに満ちた判決は、弱き者を救い強き者の横暴を戒めるものであり、江戸の町人の暮らしに大きな安心をもたらし、後の世まで名奉行として語られる存在となりました。

また、忠相は裁きのみならず実務面でも手腕を発揮しました。その姿勢は将軍・徳川吉宗からも厚く信頼され、幕政を支える重臣の一人として重きをおかれました。
今回はそんな忠相の生涯や人物像、そしてそのお墓がどこにあるかをご紹介してまいります。

大岡越前守忠相

忠相は1677(延宝5)年に、江戸で石高1,700石を領する旗本・大岡忠高の四男として生まれました。

大岡家は古くから三河松平氏に仕えてきた家系で、一族の男子の名前に代々受け継がれる「忠」の一字は、徳川家康の父・松平広忠から拝領したものと言われています。

1686(貞享3)年、忠相は一族の当主である大岡忠真の養子となり、翌年には五代将軍・徳川綱吉に初めて拝謁し、正式に幕臣としての歩みを始めました。

ところが元禄期に入ると、大岡家は相次ぐ不祥事に見舞われます。1693(元禄6)年 には実兄である忠品が将軍の不興を買って島流しとなり、さらに1696(元禄9)年 には従兄の忠英が、上司を口論の末切り殺すという事件を起こし、自身も斬殺(一説には自害ともいわれています)され死亡するという痛ましい出来事が起きました。この影響で、大岡家は一時閉門の処分を受けることになります。

しかし翌年には赦免され、1700(元禄13)年、養父である忠真の死去にともない、忠相は24歳という若さで家督を相続しました。

その後は将軍直属の書院番に任じられたのを皮切りに、徒頭や使番、目付といった要職を歴任。将軍の警護や諸国の巡察、旗本・御家人の監察などを務め、着実に実務経験を重ねていきます。

六代将軍・徳川家宣の治世となった1712(正徳2)年、忠相は伊勢山田(現在の三重県伊勢市山田)奉行に抜擢され、幕府直轄地の統治を任されました。同年には従五位下・能登守に叙せられ、幕臣としての地位を一層確かなものとします。

忠相の逸話

忠相が伊勢山田奉行を務めたおよそ五年のあいだにも、その手腕を物語る逸話がいくつも伝えられ、いずれも公正無私を貫いた姿勢が人々の記憶に強く残っています。

なかでもよく知られているのが、のちに八代将軍となる徳川吉宗の目に留まるきっかけとなったとされる出来事です。

当時、伊勢山田奉行の管轄地では、幕府直轄領と紀州藩領の境をめぐる争いが繰り返されていました。紀州藩は徳川御三家の一角であり、その権威を恐れた歴代の奉行たちは、事を荒立てぬよう判断を曖昧にするのが常でした。

ところが忠相は、そうした前例に従いませんでした。立場の強弱に左右されることなく、事実と理に基づいて調査を行い、境界を明確に定めたのです。その線引きは、結果として紀州藩側に不利なものでした。

それでも、この裁断を聞いた吉宗は、権威に屈せず公正さを貫いた忠相の姿勢に深く感じ入ったと言われています。

数多くの実績を残した忠相

1717(享保2)年、忠相は四十歳という異例の若さで、江戸市中の裁判や治安維持、消防、道路管理などを管轄する南町奉行に任ぜられました。当時、町奉行に就く者の多くが還暦前後であったことを思えば、この人事がいかに破格であったかがよく分かります。そこには、吉宗の厚い信任があったのでしょう。

吉宗が忠相に託した最大の役割は、「享保の改革」を現場で実現し推進することでした。忠相は裁きの才だけでなく、都市経営や社会政策の面でもその才を発揮していきます。

町火消しの創設

人口百万を超える江戸は、世界でも稀な大都市である一方、火災に悩まされ続ける町でもありました。家屋の多くは木造で、ひとたび火が出れば被害は瞬く間に広がります。

忠相はこの状況を改善するため、1718(享保3)年に町人主体の消防組織「町火消し」を創設しました。勇壮な装束で火に立ち向かう火消したちは江戸の名物となり、町の人気者でもありました。数年のうちに組織は拡大され、いろは四十八組や深川十六組が編成されます。

さらに、防火を意識した瓦葺き屋根や土蔵の普及を促し、道幅を広げた広小路や火除地を設けることで延焼を防止。各町には自身番が置かれ、警察・消防・自治の役割を担わせるなど、「江戸の華」といわれた火事と喧嘩は忠相の尽力によって大きく制されていきました。

庶民の声から生まれた医療施設

1722(享保7)年、忠相は小石川御薬園の一角に「小石川養生所」を開設します。これは、貧困や孤立によって医療を受けられない人々を無料で治療する施設でした。

この養生所は、将軍が設置した目安箱に寄せられた庶民の訴えをもとに実現したもので、幕府による社会福祉政策の先駆けとも言えます。明治維新まで約140年にわたり、多くの人々の命を支え続けました。

サツマイモの普及

1733(享保18)年、忠相は学者・青木昆陽を登用し、救荒作物(緊急時の備蓄食料)としてサツマイモの試験栽培を行わせます。小石川御薬園をはじめとする各地での成果を受け、この作物は関東一円へと広まり、後の飢饉対策に大きく貢献しました。

出版文化を守る制度づくり

書物の巻末に書名や著者、発行者などを記す「奥付」を義務づけたのも忠相の施策のひとつです。これにより出版物の責任の所在が明確になり、江戸の出版文化はより健全な形で発展していきました。

町奉行から大名へ

これらの功績により、忠相は三河国西大平一万石を与えられ、大名に列せられます。町奉行から大名へと昇った例は、江戸時代を通じて忠相ただ一人でした。

1751(寛延4)年、将軍職を退いて大御所となっていた吉宗がこの世を去りました。その葬儀に関わる諸事が進められる中、忠相もまた心身の不調を訴えるようになります。

やがて忠相も職を退き静養に専念しますが、1752(宝暦2)年にその生涯を閉じました。

忠相は、およそ二十年にわたり江戸の行政と司法、治安の要として町を支え続けました。その存在は吉宗にとって欠かすことのできないものであり、吉宗が後世に名君として語られる背景には、忠相の確かな支えがあったと言えるでしょう。

大岡越前守忠相のお墓はどこにある?

忠相のお墓は、神奈川県茅ヶ崎市の浄見寺にあります。浄見寺は、慶長16年(1611)に大岡家二代当主・忠政が建立した寺院です。山門の横には「大岡忠相守墓提所」と書かれた石柱があり、その裏には忠相が作った火消し組のしるしである纏(まとい)の絵が刻まれています。

境内には、初代忠勝をはじめ、忠政、忠世、そして五代当主である忠相など、大岡一族の墓石がおよそ六十基、木立に囲まれて整然と並んでいます。その中でも忠相のお墓はひときわ大きく、「大岡忠相守忠相墓所」と書かれた石碑の奥に忠相は眠っています。また、忠相の遺徳を偲ぶ行事として、毎年春に「大岡忠相祭」が開催され、地域の人々に親しまれる恒例行事となっています。

【浄見寺】神奈川県茅ヶ崎市堤4330

まとめ

大岡越前守忠相は、単なる名裁きの奉行ではありませんでした。吉宗の信頼を受け、町奉行として司法・行政・治安のすべてに目を配り、現場の声を大切にしながら江戸の町を支え続けた実務家でもありました。

火災の多発する江戸に町火消しを整え、貧しい人々のために養生所を設け、飢饉に備えて救荒作物の普及を進めるなど、その施策は常に「庶民の暮らし」を良くするためのものでした。また、目安箱に寄せられた声を政策に反映させる姿勢からも、忠相が人々の訴えに真摯に耳を傾けていたことがうかがえます。

火災の多発する江戸に町火消しを整え、貧しい人々のために養生所を設け、飢饉に備えて救荒作物の普及を進めるなど、その施策は常に「庶民の暮らし」を良くするためのものでした。また、目安箱に寄せられた声を政策に反映させる姿勢からも、忠相が人々の訴えに真摯に耳を傾けていたことがうかがえます。

忠相の墓前に立つと、長いものにまかれたり、私利私欲に走るのではなく、静かに人々の暮らしを守ろうとした忠相の志が、今なお伝わってくるようです。その生涯は、時代を超えて「理と情を両立させる政治とは何か」を問いかけているのかもしれません。

お墓は、亡くなった人を思い出すだけの場所ではありません。そこには、家族や人とのつながり、そしてその人が生きた証や想いが静かに残されています。お墓参りは、そうした背景に思いを巡らせながら、いっしょに訪れた人と語り合う時間でもあります。

教科書や本で名前を知っている偉人たちも、実際にお墓を訪ねてみると、「時代を生きていた人なのだ」と実感できるでしょう。お墓巡りは、歴史を身近に感じるきっかけになるのです。

マナーに十分に注意した上で、いろいろなお墓に参ってみてはいかがでしょう。

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