お役立ちコラム お墓の色々
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【豊臣兄弟】の弟、豊臣秀長のお墓はどこにある?

2026年の大河ドラマ「豊臣兄弟」は、豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)と実の弟である豊臣秀長(とよとみ ひでなが)をモデルに描かれています。
秀吉といえば、農民の身から天下人へと駆け上がった立身出世の象徴として知られています。しかしその華々しい成功の裏には、表に出ることなく秀吉を支え続けた一人の人物がいました。それが、秀吉の弟・秀長だと言われています。武功や才覚で注目を集める兄の補佐役として、政務や領国経営、さらには諸大名との調整役として静かに力を発揮した秀長。天下統一という大業が成し遂げられた背景には、こうした縁の下の支えがあったのです。
今回は豊臣秀吉の右腕として活躍した豊臣秀長の生涯やお墓がどこにあるかをご紹介してまいります。
兄を追って織田家へ
秀長は兄である秀吉の誕生から3年後にあたる1540年(天文9年)に母・仲(のちの大政所)と父・弥右衛門の子として、尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)で生まれました。ちなみに、秀長の父は仲の再婚相手とする異父兄弟という説もありますが、秀吉と秀長は同じ父母をもつ実の兄弟とする見方が有力とされています。
1550年(天文19年)、兄・秀吉は武士として身を立てることを志し、家を離れて放浪の果て、ついに織田家に仕えるようになります。その頃、秀長は「小一郎(こいちろう)」と名乗り、生まれ育った土地で農業に従事して静かな日々を送っていました。
しかし1561年(永禄4年)頃、織田家の奉公人となった秀吉の帰郷を境に秀長の人生は大きく変わっていきます。帰郷した秀吉は秀長に対して同じく奉公に出ることを勧めたのです。この兄の言葉を受け、秀長はそれまでの暮らしを捨て、武士としての道へと踏み出すことになりました。
戦場で兄を支える秀長
秀長は兄・秀吉と行動をともにしながら、武士として着実に実戦経験を重ねていきました。戦場では冷静な判断力を発揮し、ときには兄の窮地を救うなど、確かな成長を見せます。
1566年(永禄9年)、織田信長による美濃国攻略が進められる中、秀長は「墨俣一夜城(すのまたいちやじょう)」の築城に深く関わったと伝えられています。現在の岐阜県大垣市にあったとされる墨俣一夜城は、豊臣秀吉が一夜にして築いたとされる前線拠点として知られ、彼の出世の足がかりとなった城でもあります。なお、一夜にして築いたという話は伝承とされていて、実際は3~7日ほどかかったと言われています。
この築城にあたり、秀長は蜂須賀小六の名でも後世に広く知られる蜂須賀正勝(はちすか まさかつ)や、後に秀吉最古参の重臣と称される前野長康(まえの ながやす)といった有力武将に対し、「私たち兄弟が手柄を立てられたのは皆さまのお力添えがあってこそです」と謙虚な姿勢で協力を願い出ました。その誠実で腰の低い態度は多くの武将の心を動かし、墨俣城築城をはじめ、秀吉の調略や人脈づくりに大きな力となっていきます。
こうして秀長は、兄の勢いを支える重要な調整役として、味方や協力者を着実に増やしていきました。戦場においてもその献身ぶりは変わらず、1570年(元亀元年)の金ヶ崎の戦いでは、浅井家の裏切りにより撤退を余儀なくされた織田軍を守るため、秀吉の命を受けて金ヶ崎城に籠もり、殿軍の一翼を担います。
一番隊の大将として体を張って防戦した秀長の働きや、明智光秀・池田勝正軍との連携によって信長の退却を成功させた秀吉は、見事に殿軍を勤め上げた功績によって信長の深い信頼をつかみ取りました。この戦いを契機に、秀吉はさらなる出世への道を切り開いていくこととなるのです。
秀長の最後
1577年(天正5年)、信長が進めた「中国攻め」において、秀長は現在天空の城として有名な兵庫県朝来市にあった竹田城を攻略し、その功績によって兄・秀吉から竹田城代に任じられます。あわせて但馬国の統治を託され、軍事のみならず領国経営の面でも手腕を発揮していきました。
続く1578年(天正6年)の三木城攻めでは、織田信長の直命を受け1579年(天正7年)に出陣。見事三木城の補給を断つことに成功します。この働きが決定打となり、翌1580年(天正8年)に三木城は降伏開城しました。さらに秀長は英賀城をも攻略し、戦果を挙げたのち但馬国へと戻っています。
功績を重ねた秀長は、41歳で現在の兵庫県豊岡市にあった出石城、十万五千石の城主に取り立てられました。その後も秀吉の方針に忠実に従い、織田政権下における豊臣家の立場を強固なものとするため、献身的に兄を支え続けます。
1582年(天正10年)、本能寺の変によって織田信長が討たれると、秀長は織田家の次男・織田信雄(おだ のぶかつ)を味方に引き入れる策を秀吉に進言しました。この提案を受けた秀吉は、巧みに情勢を掌握し、次々と政敵を退けて天下統一への道を切り開いていきます。
秀吉が天下統一に向かって突き進む中、秀長は紀伊国(現在の和歌山県と三重県南西部)・和泉国(現在の大阪府南西部)を領する六十四万石の大名となり、豊臣家にとって要衝である大阪南部を任されました。さらに1585年(天正13年)、秀吉が関白に就任すると、秀長は大和国(現在の奈良県)を加えた百万石の大大名へと成長し、大納言の官位を得て大和大納言と称され、全国平定に向けた政務の中核を担う存在となっていったのです。
しかし、秀長が次第に政務を中心とした役割へ移っていったのにはもう一つの理由がありました。秀長は病気で体調を崩していたのです。そのため戦場に立つことを控え豊臣政権の中枢に身を置きながら、主に行政面を支える立場を担うようになります。
しかし、1589年(天正17年)頃から病状はさらに深刻さを増し、そのまま回復することはありませんでした。1591年(天正19年)、秀長は病床に伏したまま、大和郡山城にて、52歳でその生涯を閉じました。
豊臣秀長のお墓はどこにある?
秀長は最初、大和郡山城の近くに葬られ、兄・豊臣秀吉が建立した大光院(だいこういん)が墓所の管理を担っていたと伝えられています。しかし、大和豊臣家が断絶すると寺院は京都へ移転し、墓地は次第に荒廃していきました。
その後、江戸時代中期の1777年(安永6年)、秀長の位牌を託されていた東光寺(現在の春岳院)の僧侶・栄隆と訓祥が、大和郡山の町民たちの協力を得て、あらためて五輪塔を建立し、その周囲に土塀を築いたと伝えられています。これが、現在「大納言塚」と呼ばれている秀長の墓所です。
大納言塚は高さ約2メートルの五輪塔で、基壇にあたる「地輪」には、秀長の戒名である「大光院殿前亜相春岳紹栄大居士」が刻まれています。
また、大納言塚の門前には「お願いの砂箱」が設けられています。現地の案内によれば、大和大納言秀長公は、優しく賢明で、現在の大和郡山の礎を築いた名君として知られ、「学問の智将」とも称されてきました。参拝の感謝を述べた後、自身の名前と願い事を心に念じながら、門前の石の箱に三度砂を通すと、願いが叶うと伝えられています。
こうした信仰からも、没後長い年月を経た今なお、秀長が人々に敬愛され続けていることがうかがえるでしょう。
【大納言塚】奈良県大和郡山市箕山町14−8
まとめ
豊臣秀長は、豊臣秀吉を天下人へと導いた最大の功労者と評しても差し支えない存在と言えるでしょう。秀吉にとって秀長は、弟であると同時に、誰よりも信頼できる唯一無二の補佐役でした。そして秀長自身もまた、兄の才覚と将来性を誰よりも深く理解し、その成功を疑うことなく信じ続けていたのでしょう。
秀長は、華やかな功績で語られることの多い兄・秀吉の陰で、常に豊臣家を支え続けた存在でした。武功を挙げるだけでなく、領国経営や諸大名との調整役を担い、豊臣家の基盤を安定させたその働きは、天下統一に欠かせないものであったといえるでしょう。
兄の才覚を誰よりも理解し、時に大胆な策を進言しながらも、自らは一歩引いて全体の調和を保つ。その姿勢こそが、秀長の真骨頂でした。もし彼が長く生きていれば、豊臣政権の行く末は違ったものになっていたのではないか、と想像せずにはいられません。
秀長の墓前に立てば、権勢に溺れることなく、政と人心の安定に心を配り、全体の調和を守ろうとした秀長の生きざまから「真に人を支えるとは何か」という問いの答えを得ることができるかもしれません。
お墓は、亡くなった方を偲ぶだけの場所ではありません。そこには、家族や人とのつながり、その人が歩んできた人生や想いが、静かに刻まれています。お墓参りとは、そうした背景に思いを巡らせながら、共に訪れた人と語り合うひとときでもあるのです。
教科書や書物でしか名前を知らない偉人たちでも、実際にその墓前に立つことで「確かにこの時代を生きていた一人の人間だった」と実感できるかもしれません。
マナーに十分注意した上で、いろいろなお墓に参ってみてはいかがでしょう。
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