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『どうする家康』天下統一を成し遂げ、太平の世を創った徳川家康のお墓

墓地・墓石コラム

『どうする家康』天下統一を成し遂げ、太平の世を創った徳川家康のお墓

2023年のNHK大河ドラマ「どうする家康」では、松本潤さん演じる徳川家康が、駿河国・遠江国(現在の静岡県)の守護大名・今川義元(演:野村萬斎さん)のもとで人質としての幼少時代を過ごし、弱小国と言われた三河国(現在の愛知県東部)の主となったのち、天下統一を成し遂げていくまでの波乱の生涯が描かれます。

徳川家康は、天下統一によって戦国時代に終止符を打ち、265年も続く江戸幕府を成立させるという、大偉業を成し遂げた人物です。織田信長、豊臣秀吉という英傑が名を馳せる時代にありながら、家臣たちと共に苦難を乗り越え、粘り強くその地位を確立していった家康。ドラマ終盤では、平和な世の中を次世代に繋いでいこうとする姿、家康を演じる松本潤さんの迫力の演技が、多くの人の心を動かしています。

徳川家康の生涯

人質として過ごした幼少期

家康は、天文11年(1542年)、三河国岡崎の岡崎城にて、松平氏8代当主である松平広忠(ひろただ)の嫡男として生まれました。幼名は「竹千代」(たけちよ)と言います。
6歳から織田家の人質として、8歳からは今川家の人質として育ちました。織田家の人質時代に信長(演:岡田准一さん)と知り合ったとの説があるものの、史料には残されていないようです。

天文24年(1555年)、14歳で元服し、今川義元から「元」の字を賜り「次郎三郎元信」(じろうさぶろうもとのぶ)に改名。その2年後に義元の姪である瀬名姫(築山殿/演:有村架純さん)と結婚し、同じ頃「元康(もとやす)」へと名前を変えます。
永禄3年(1560年)、織田信長軍と今川義元軍がぶつかった「桶狭間の戦い」にて義元が討死すると、今川氏の支配下を離れて岡崎に戻ることとなりました。

「徳川家康」として独立

岡崎に戻った家康は、永禄5年(1562年)信長と同盟関係を結んで独立しますが、ここから、更なる苦難を乗り越えていくことになります。

独立の翌年、一向宗(浄土真宗)の信徒たちによる三河一向一揆が起こり、家臣団が分裂するなど危機的な状況になるも、これを鎮圧して三河国を統一。永禄9年(1566年)に、朝廷から「従五位下三河守」(じゅごいのげ みかわのかみ)という官位を賜り、姓を「徳川」に改めました。

元亀3年(1572年)、武田信玄(演:阿部寛さん)の進軍にともなって起こった「三方ヶ原の戦い」では、多くの死傷者を出して惨敗。危機的状況に陥りながらも、信玄が病死したことで難を逃れます。その後、信玄の息子・武田勝頼と戦った「長篠の戦い」には勝利しますが、信長から、正室・瀬名姫(築山殿)と嫡男・松平信康に対して武田氏への内通疑惑がかけられ、瀬名姫を殺害、信康を切腹させることとなったと言われています。

天正10年(1582年)には、本能寺の変により織田信長が死去。家康は、わずかな家臣を連れて堺に滞在中であったため、混乱の中で命を狙われる危険な状況の中、決死の退散「伊賀越え」を行い、無事岡崎城へ戻りました。

武田信玄、正室の瀬名姫、長男・松平信康、織田信長のお墓についてはこちらの記事で紹介しています。
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天下分け目の関ヶ原の戦い

命も危うくするような様々な苦難ののち、織田家の勢力争いによって豊臣秀吉(演:ムロツヨシさん)と対峙した「小牧・長久手の戦い」を経て、秀吉に忠誠を誓います。天正18年(1590年)には、秀吉の命により、三河国を手放す形で関東へと領地を移し江戸城に入ることとなりました。

関東に移った家康は、豊臣政権に深く関わっていきます。慶長3年(1598年)、死期を悟った秀吉に任命され、豊臣政権で政治運営に関わる5名の有力大名「五大老」の1人に。同年に秀吉が死去すると、「秀頼が成人するまで政事を家康に託す」という遺言に従って五大老筆頭に就任しました。

慶長5年(1600年)、豊臣政権を家康から守ろうと石田三成(演:中村七之助さん)が挙兵し、「天下分け目」と言われる「関ヶ原の戦い」が起こります。石田軍(西軍)が有利かと思われましたが、徳川軍(東軍)へと寝返る大名が続出。最後は秀吉の正室・ねね(高台院)の甥である小早川秀秋の寝返りが決定打となり、徳川軍(東軍)が勝利しました。

武勇や知略で、家康を支えた家臣についても紹介しています。
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征夷大将軍として江戸幕府を開く

関ヶ原の戦いに勝利した家康は、1603年(慶長8年)、朝廷から征夷大将軍に任命されて江戸幕府を開き、天下統一を果たすこととなりました。

そのわずか2年後、息子の秀忠に将軍職を譲り、駿府城へと移ります。しかし、豊臣方の動きなど依然として情勢が不安定であったこともあり、「大御所」として政治の主導権は握り続けました。

大坂冬の陣・夏の陣と、家康の最期

慶長19年(1614年)、徳川の世に反発する豊臣方を抑えるため、家康が大坂城を包囲し、「大坂の陣」が始まります。真田幸村や伊達政宗などの武将が参加し大きな戦となりましたが、「夏の陣」、翌年の「冬の陣」と2度の戦闘を経て、家康側が勝利し豊臣家は滅亡しました。

その後家康は、京都にとどまり、その後の幕藩体制を位置付ける基礎となる「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」や「武家諸法度(ぶけしょはっと)」を制定。駿府城に戻ったのち、元和2年(1616年)4月17日に75歳で死去しました。

家康が目指した政治は、息子の秀忠、孫の家光が引き継いで実行し、270年近く続く江戸幕府を確立させていきました。

将軍職を引き継いだ家康の息子・秀忠についてはこちらで紹介しています。
『どうする家康』関ヶ原に遅参?江戸幕府の礎を築いた2代将軍・徳川秀忠のお墓

家康のお墓、久能山東照宮と日光東照宮

家康の葬儀は、徳川家の菩提寺である江戸の増上寺にて行われました。遺体は、駿府にある久能山(久能山東照宮)に葬られ、一周忌を経て日光東照宮に分祀されます。更に位牌は、家康の故郷・三河にある大樹寺に納められました。
これらはすべて、家康の遺言によって指示されたものでした。

久能山東照宮(静岡県静岡市駿河区根古屋)

久能山東照宮(静岡県静岡市駿河区根古屋)

前述のように、元和2年(1616年)に家康が亡くなり、その遺言に従って遺体が埋葬されたのが、久能山東照宮です。久能城を廃止して東照宮が創建されました。

秀吉に次いで神格化された家康の墓所である神廟は、本殿の後方、廟門から40段の石段を上った所に建てられています。当初は、木造の宝塔が建てられましたが、寛永17年(1640年)に3代将軍・徳川家光が現在の石造宝塔に造り替えたとされています。

宝塔とは、円筒形の塔身に方形(四角)の屋根をかけた供養塔です。高さは、5.5m、外廻り約8m、塔身の前面に唐戸と呼ばれる開き戸があり、軒の四隅には唐銅の風鐸(ふうたく)という飾りが掛かっています。

日光東照宮(栃木県日光市山内)

日光東照宮(栃木県日光市山内)

家康の遺体が久能山東照宮に埋葬された1年後である元和3年(1617年)に、家康の遺言により、分祀する形で建てられたのが日光東照宮です。
本殿後方(「眠り猫」の先)に位置する「奥の院」に、「奥社宝塔(おくしゃほうとう)」と呼ばれる高さ約5mの供養塔が建てられています。こちらも、久能山東照宮の宝塔同様に当時は木造だったようですが、寛永18年(1641年)に石造に改められ、更に天和3年(1683年)の地震での倒壊後、唐銅製に改められました。

その他の家康のお墓

大樹寺(愛知県岡崎市鴨田町広元)

大樹寺は松平家・徳川将軍家の菩提寺であり、家康の遺言により、その位牌が収められた寺院です。ドラマの中でも、今川義元が桶狭間の戦いに敗れた際、家康がここへ逃げ帰り、家康の父・松平広忠の墓の前で自害を思いとどまった場面が描かれていました。
境内の松平八代墓の隣に、家康の墓碑である石造宝塔が建てられています。

徳川家霊台(和歌山県伊都郡高野町)

徳川家霊台(とくがわけれいだい)は、和歌山県の高野山にある、家康と息子・秀忠の位牌が祀られた霊屋(たまや)です。3代将軍家光が、その父で第2代将軍秀忠の死の翌年に当たる寛永10年(1633年)から10年かけて造営したと伝えられています。かつては、徳川家の菩提寺・宿坊でもあった大徳院の境内にありましたが、明治時代に他寺院と合併して廃寺となり、霊台のみが残されました。
向かって右に家康霊屋、向かって左に秀忠霊屋の2棟が並び、家康が東照大権現という神として祀られているため、家康霊屋前には鳥居があります。

他にも、各地にある家康のお墓についてこちらの記事でもまとめていますので、あわせてお読みください。
偉人のお墓が複数あるのはなぜ?〜徳川家康編

まとめ

幼少期からの重なる苦難を乗り越え、天下統一を果たした家康。平和な国家をつくりあげるという、大きな役割を果たしました。江戸幕府は、15代、265年にわたって続き、厳しい大名統制によって政治が安定したことで経済が発展、それにともなって様々な文化が生まれる時代となりました。

家康の墓所には、荘厳な建築物と合わせ、重厚感のある供養塔が建てられ、国の歴史を大きく動かす大偉業を成し遂げた家康を、手厚く御祀りしようという想いが伝わってきます。

大切な誰かのことを想いお墓を建てる。その心は現代に生きる私たちにも受け継がれているものだと思います。ぜひ現地を訪れ、家康の生きた時代の息遣いを感じてみてはいかがでしょうか。

久能山東照宮への交通アクセス

自動車

日本平山頂より「静岡鉄道 日本平ロープウェイ」を利用する場合

東名高速道路「日本平久能山スマートIC」より約20分/または「静岡IC」より約40分
⇒ 山頂より日本平ロープウェイにて約5分

「久能山下からの徒歩ルート」

東名高速道路「日本平久能山スマートIC」より約10分/または「静岡IC」より約20分
⇒ 山下より徒歩約20分(石段が1,159段)

鉄道

日本平山頂より「静岡鉄道 日本平ロープウェイ」を利用する場合

JR静岡駅より、しずてつジャストライン日本平線にて終点「日本平ロープウェイ」下車(約45分)
⇒ 山頂より日本平ロープウェイ(5分)

「久能山下からの徒歩ルート」

JR静岡駅より、しずてつジャストライン石田街道線にて終点「東大谷」下車(約40分)
東大谷バス停で「久能山下行き」のバスに乗り換え、終点「久能山下」で下車(約15分)
山下からは石段が1,159段続きます(約20分)。