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『どうする家康』でも注目!徳川四天王・榊原康政のお墓がある善導寺

墓地・墓石コラム

『どうする家康』でも注目!徳川四天王・榊原康政のお墓がある善導寺

2023年のNHK大河ドラマ「どうする家康」では、松本潤さん演じる徳川家康が、駿河国・遠江国(現在の静岡県)の守護大名・今川義元(演:野村萬斎さん)のもとで人質としての幼少時代を過ごし、弱小国と言われた三河国(現在の愛知県東半部)の主となったのち、天下統一を成し遂げていくまでの波乱の生涯が描かれます。

今回取り上げる榊原康政は、陪臣(ばいしん/家臣の家臣。松平氏に仕えていた酒井忠尚の家臣だった。)という身分に生まれながら、家康の小姓に取り立てられ、更には家康から「康」の字を与えられ、そして徳川四天王と呼ばれる重臣の一人にまで出世した武将です。文武に優れていたと伝えられ、ドラマでは杉野遥亮(すぎのようすけ)さんが、マイペースに見えて重要な局面で家康を支える人物として演じられています。

文武に長けた功臣と言われる、康政の生涯

家康との出会い〜初陣

榊原康政は幼名を「亀・亀丸」のちに「小平太」といい、三河国の上野城で生まれました。康政が13歳のとき、松平家の菩提寺である大樹寺にて、桶狭間の戦いで大高城から撤収してきた家康(当時は松平元康)と出会い、小姓として見出されたと言われています。

ドラマでは、両親の墓前にて自害を踏みとどまった家康に、のちに徳川軍の旗印となる『厭離穢土(おんりえど)欣求浄土(ごんぐじょうど)』という言葉の解釈を教えるというシーンで描かれています。史実では、大樹寺の住職・登譽上人(とうよしょうにん/演:里見浩太朗さん)が教えたとされているようです。

その後、三河一向一揆鎮圧で初陣を飾り、一向宗の門徒(浄土真宗の信者)であった多くの家臣が一揆側に味方する中、家康側に付き力を尽くしました。この後、家康から「康」の一字を与えられ、「康政」と名乗るようになります。

家康を守り武将として活躍

家康が「松平」から「徳川」に改名したときと同年の元禄9年(1566年)に、19歳で元服。同年齢の本多忠勝とともに、旗本先手役(戦に備えて城下に常駐する家康直轄の精鋭部隊)に抜擢され、50騎あまりの兵を与えられ、その将として活躍していくことになります。

「姉川の戦い」では朝倉軍への側面攻撃、いわゆる「横槍」で武功を立て、その後も「三方ヶ原の戦い」「長篠の戦い」「高天神城の戦い」などの戦に参戦し活躍。天正10年(1582年)に「本能寺の変」が起きた際には、家康が明智光秀の攻撃を逃れて帰国するための、決死の「伊賀越え」にも同行したと言われています。

秀吉にも認められる度胸を持つ康政

康政の力を感じさせるこんなエピソードも残されています。家康が豊臣秀吉(演:ムロツヨシさん)と対立した「小牧・長久手の戦い」にて、康政は、幼い頃から取り立ててくれた織田家を攻撃する秀吉を非難し挑発するような檄文(げきぶん/自分の考えを主張し決起を促すお触れなどの文)を出し、秀吉側に隙を作ろうとしました。秀吉は挑発に乗り大激怒。「康政の首を獲ったら10万石を与える」という触れを出すほどでしたが、のちに、家康と秀吉の妹・朝日姫との結納を取り持つ係に指名し、官位を贈るなど、その知略や度胸を認めていったと伝えられています。

天正18年(1590年)の「小田原征伐」にて武功をあげたのち、家康が豊臣秀吉の傘下に入り関東に移った際には、上野国(現在の群馬県)館林に本多忠勝と並び家臣団中第2位の10万石を与えられ、館林藩の初代藩主となりました。館林では、城や城下町の整備の他、川の築堤や街道整備など土木事業に尽力したそうです。

関ヶ原の戦いから晩年の様子

敵対していた相手にもその力を認められている康政ですが、実は、あの有名な「関ヶ原の戦い」には参戦していません。当時、康政は家康の息子である徳川秀忠に従軍し関ヶ原を目指しましたが、途中の上田城攻めにて、戦上手な真田昌幸の足止めに苦戦し、合戦に遅参することとなりました。家康は秀忠の失態に激怒しましたが、康政のとりなしで許されることとなり、秀忠は康政に大変感謝したと言われています。

関ヶ原の戦い後、家康が江戸幕府を開き康政は老中となりますが、側近同士の対立に時代の変化を感じ、自ら退いたと言われています。慶長11(1606年)、59歳となっていた康政は病に倒れます。関ヶ原の戦いで恩のある秀忠が医師や家臣を送りましたが、館林城にてその生涯を終えました。

無二の友、井伊直政

康政と同じく、「徳川四天王」「徳川三傑」と称された武将の一人に、井伊直政(演:板垣李光人さん)がいます。武田家の旧家臣達が直政に与えられることを知った際、康政は、年下ながら自分と同じように一気に出世してきた直政への嫉妬心からか、「あの若造、刺し違えてくれる」と発言。こちらも徳川四天王の一人で先輩の酒井忠次(演:大森南朋さん)に叱咤され反省したのち、康政と直政は親友のように仲良くなったといわれています。

「大御所の御心中を知るものは、直政と我計りなり(家康の心が分かるのは、井伊直政と自分だけ)」「自分が直政に先立って死ぬようなことがあれば、必ず直政も病になるだろう。また直政が先立てば、自分の死も遠くない」などの康政の言葉も残されており、二人の関係の深さを思わせます。
武将一人一人の能力もさることながら、このように、同じ志を持つ家臣同士が強い絆を持って戦ったことも、徳川家の強さだったと言えるのではないでしょうか。

榊原康政が眠る善導寺

榊原康政が眠る善導寺

榊原康政の墓所は、康政の最期の地となった群馬県館林市楠町の善導寺にあります。
善導寺(浄土宗 終南山 見松院 善導寺)は、和銅元年(708年)、東大寺の大仏建立の責任者であったことでも知られる行基(ぎょうき)によって開創されたとされる寺院です。一時は荒れ果てていたところ、康政が館林城の城主になった際に再興し、康政の死後榊原家の菩提寺になったと伝えられています。

境内の一角に榊原康政の墓所があり、康政を始め、康政の側近で後を追って殉死した南直道、康政の三男で館林藩主2代目の榊原康勝など、榊原家関係者の墓石5基が並んでいます。
墓所に向かって左から2番目の背の高い宝篋印塔(ほうきょういんとう)が康政の墓です。高さは5.46m。相輪が大きく、笠の隅飾りが外に開いているという、近世初期を思わせる特徴を備えています。高さもさることながら、各所に細かな装飾が施された、存在感のある石塔です。

宝篋印塔とは・・・供養塔や墓碑塔などに使われる仏塔の一種で、中国からの伝来後日本で独自の発展をしてきた塔です。一般的に上から「相輪(そうりん)」「笠」「塔身(とうしん)」「基礎」「基壇」で構成され、笠の四隅には「隅飾(すみかざり)」と呼ばれる突起があるのが特徴です。宝篋印塔についての詳しい解説記事もありますので、合わせてお読みください。
宝篋印塔の歴史と特徴をわかりやすく解説します

なお、墓所に並ぶ石塔は、左から、南直道の宝篋印塔、康政の宝篋印塔、康政の長子・大須賀忠政の五輪塔、康勝の五輪塔、康政の側室で康勝の生母・花房氏の宝篋印塔となっています。
この墓所は、昭和28年(1953年)に群馬県の史跡として指定されました。

五輪塔については以下の記事をご覧ください。
五輪塔の歴史と特徴をわかりやすく解説します

他にもある、康政の墓・ゆかりの地

高野山 奥の院(和歌山県伊都郡高野町)

戦国武将や大名の墓が数多く建てられていることで知られる高野山奥の院にも、康政の墓石があります。上杉謙信霊屋に近い23町石あたりに、高さ2m程の五輪塔が立てられています。

榊神社(新潟県上越市)

榊原家は関東・甲信越地方高田藩の藩主を務めており、初代当主である榊原康政を祀るため立てられたのが、榊神社だと言われています。境内には、康政の物と伝えられる鎧、冑、刀剣など多くの遺品が所蔵・展示されています。

まとめ

榊原康政は、武勇・知略に秀でた武将と言われています。前述した側近・南直道の殉死や、家臣たちによって手厚く供養されていることから、冷静に状況を見定め忠義を尽くして働く姿が、家康を始め家臣からも厚い信頼を得たのではないかと想像できます。

善導寺のある館林市では、道路の位置や道幅など、康政が整備したまま残っている場所もあるそうです。ぜひ実際にその地を訪れ、最後まで忠実に家康に仕え、世の平定のために力を尽くした康政の生き方を思い浮かべてみてはいかがでしょうか。

康政に関わりのある武将のお墓を紹介している記事もございます。ぜひ合わせてお読みください。
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善導寺へのアクセス

自動車

東北自動車道「館林IC」より約7分

鉄道

東武鉄道 東武伊勢崎線「館林駅」から館林・板倉線「アゼリアモール前」バス停下車 徒歩約6分