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『どうする家康』でも注目!徳川四天王筆頭・酒井忠次のお墓はどこ?

墓地・墓石コラム

『どうする家康』でも注目!徳川四天王筆頭・酒井忠次のお墓はどこ?

2023年のNHK大河ドラマ「どうする家康」では、松本潤さん演じる徳川家康が、駿河国・遠江国(現在の静岡県)の守護大名・今川義元(演:野村萬斎さん)のもとで人質としての幼少時代を過ごし、弱小国と言われた三河国(現在の愛知県東半部)の主となったのち、天下統一を成し遂げていくまでの波乱の生涯が描かれます。

今回ご紹介する酒井忠次は、側近の中でも家康が幼き頃からそばに仕える最古参の家臣で、ただの一度も裏切ることなくその生涯を捧げた、忠義の人で知られる人物です。徳川四天王と呼ばれた武将の中でも最年長であり、家康第一の功臣として讃えられています。ドラマの中では、広い視野と決断力をもって個性の強い徳川家臣団をまとめ、家康の相談役にもなっている信頼のおける役柄として、大森南朋(おおもりなお)さんが演じておられます。

酒井忠次の生涯

家康の幼少時代から側で支えた忠次

酒井忠次は、大永7年(1527年)徳川の前身である松平氏の家臣である酒井忠親の次男として、三河額田郡(ぬかたぐん)(現在の愛知県)の井田城で生まれました。酒井家は三河譜代(徳川家が松平だった頃から代々仕えている大名)筆頭の家系です。
家康より15歳年上の忠次は、家康が生まれた天文11年(1542年)頃に元服し、家康の父である松平広忠の家臣を経て、家康(当時は竹千代)に支えることになります。6歳の家康が今川家の人質となった際も、家臣として同行しました。

信長も一目置くほどの戦場での活躍

忠次は、家康の人質時代すでに、力のある武将としてその才能を発揮していたようです。弘治2年(1556年)、三河の福谷城(うきがいじょう)が柴田勝家に攻められた時には、城外に出て戦い、初陣にも関わらず鬼の勝家を敗走させたと伝えられています。その後も、戦で特に重要とされた先陣や敵方最前線の城を任されるなど、一目置かれていたようです。

元禄3年(1560年)の桶狭間の戦いの後、徳川家の家老(家臣の最高位で統括役)となった忠次は、三河一向一揆、姉川の戦い、小牧・長久手の戦い、三方ヶ原の戦いなどで、家康と共に戦い、数々の武功をあげていきます。

中でも有名なのは、天正3年(1575年)に織田・徳川連合軍が武田信玄の息子・勝頼率いる武田軍と戦った「長篠の戦い」。武田本陣の背後にあった鳶ヶ巣山砦(とびがすやまとりで)攻略からの奇襲攻撃ではないでしょうか。戦に行き詰まった際、忠次は、武田軍背後からの奇襲攻撃を提案します。武田本陣の背後には攻略の難しい鳶ヶ巣山砦があったことから織田信長(演:岡田准一さん)に一蹴されたものの、見事陥落させ奇襲を成功させました。こうして長篠城救出のために大きな役割を果たした忠次に、織田信長は「背に目を持つごとし」(背中に目がついているようだ)との言葉をかけて賞賛したとも伝えられています。

忠次といえば、「酒井の太鼓」の逸話も有名です。「三方原の戦い」で家康が敗走した際、武田軍が浜松城門前まで追ってくるにも関わらず、城門を開け放って大きなかがり火を焚き、更には忠次自身がやぐらの上へ登り太鼓を大きく打ち鳴らしました。あたかも何かの計略があるかのように見せたことで、武田軍は伏兵があると疑い引き返し、かろうじて城を守ることができたと伝えられています。この逸話は、真実かどうかはっきりしない部分もあるようで、一説では、歌舞伎の演目になったことで広く知られるようになったとも言われています。

「海老すくい」は本当にあった?

ドラマでは、忠次が「海老すくい」という踊りで場を盛り上げるシーンが何度か出てきます。ドラマの演出と思った方もおられるかもしれませんが、「海老すくいの舞いを宴会芸として披露し、場を盛り上げた」という内容の書かれた書物が残されているようです。
忠次は知性と武勇に優れた武将といわれていますが、気遣いができユーモアのある人柄であったことも、家康や他の家臣たちから信頼を集める要因だったのかもしれませんね。

静かに過ごした晩年

天正12年(1584年)の「小牧・長久手の戦い」で中心となって活躍したのち、天正16年(1588年)には嫡男の家次に家督を譲り、隠居生活に入ります。高齢であったことに加え、眼病を患っていたためとも伝えられています。

家康が関東に入ると、息子・家次に3万石が与えられますが、徳川四天王である他の3人には10万石以上が与えられており、最古参の家臣とは思えない石高でした。これは、徳川家最大のタブーとされ、築山殿事件とも言われる、家康の息子・信康(演:細田佳央太さん)の自害へと発展する事件を解決することができなかったためと語られることが多いですが、真実はわかっていません。

築山殿事件については、こちらの記事にまとめていますのでご覧ください。
『どうする家康』でも注目!瀬名姫(築山殿)の墓がある八柱神社

慶長元年(1596年)、忠次は家康の天下統一を見る前に、70歳でこの世を去りました。

酒井忠次のお墓

知恩院/知恩院塔頭・先求院(京都府京都市東山区)

酒井忠次の墓所としてよく知られているのは、知恩院塔頭(たっちゅう)・先求院(せんぐいん)が管理している墓所です。(塔頭とは、大寺院の敷地内や近くにある小寺のこと)酒井忠次が開創したとされる先求院は、忠次の菩提寺となっており、門の脇には「酒井忠次公御廟所」の石標が立てられています。

先求院は、知恩院の門前から徒歩1分くらいのところにありますが、こちらにあるのはお位牌と肖像画のみです。墓所は先求院の境内ではなく、知恩院裏手の総墓地内にあります。

墓地の中でも、大きく存在感を放っているのが、忠次の墓石である石造宝塔です。等身には、忠次の法名である「先求院天誉高月縁心居士」の文字が刻まれています。基礎には酒井家の家紋である「丸に片喰紋(まるにかたばみもん)」や返り花座などが施され、笠も木造屋根の思わせる細かな造りとなっているなど、壮麗な様子が見てとれます。宝塔の右隣には、忠次の正室である碓井姫(うすいひめ)の墓石とされる五輪塔が建てられています。

宝塔とは・・・仏塔の種類の1つで、基礎の上に伏鉢(ふくばち)形の塔身、方形の笠(屋根)が置かれ、相輪(宝珠・請花・九輪・請花・伏鉢・露盤という部分から成る長い柱のような部分)が立てられているのが特徴。

五輪塔についてはこちらの記事をご覧ください。
五輪塔の歴史と特徴をわかりやすく解説します

大督寺(山形県鶴岡市中新町)

酒井家が藩主を務めた庄内藩(山形県鶴岡市)にある大督寺(だいとくじ)も、酒井家の菩提寺となっており、大督寺の南側に酒井家の墓所があります。

広さは約7270㎡にもなり、初代の忠次から、2004年に亡くなった17代当主まで、歴代藩主や当主、その妻などの墓45基が並んでいます。一番奥まったところに、四角い縦長の墓石が3基並んでいるうち、向かって一番右が忠次の墓石とのことです。他の2基は、2代当主・家次、3代当主・忠勝それぞれの墓石とされています。

なお、長年一般には公開されていませんでしたが、子孫にあたる方々や地域の方々によって、墓所の保存と一般公開に向けた計画が進められているようです。

まとめ

忠次のお墓は、酒井家と関わりのある人たちの手によって、代々守られてきました。これは、徳川家や国の安寧のために尽くしてきた、忠次をはじめとしたご先祖様たちの行いに誇りをもち、その精神を受け継いでいこうという心の現れと言えるかもしれません。

家臣の筆頭として冷静に状況を見極め、家臣団も含めた徳川家全体を支え続けた忠次。ぜひ現地を訪れ、与えられた役割を全うした忠次の精神を感じてみてはいかがでしょうか。

家康や、徳川四天王と称される他の武将のお墓についてはこちらにまとめていますので、併せてお読みください。
偉人のお墓が複数あるのはなぜ?〜徳川家康編
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知恩院塔頭・先求院へのアクセス

自動車

名神高速道路 「京都東IC」より約10分

鉄道・バス

地下鉄「東山駅」下車 徒歩約8分

知恩院前バス停下車 徒歩約5分