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『どうする家康』でも注目!家康のもとを出奔した石川数正のお墓

墓地・墓石コラム

『どうする家康』でも注目!家康のもとを出奔した石川数正のお墓

2023年のNHK大河ドラマ「どうする家康」では、松本潤さん演じる徳川家康が、駿河国・遠江国(現在の静岡県)の守護大名・今川義元(演:野村萬斎さん)のもとで人質としての幼少時代を過ごし、弱小国と言われた三河国(現在の愛知県東半部)の主となったのち、天下統一を成し遂げていくまでの波乱の生涯が描かれます。

今回は、家康の子供時代からそばに仕え、武功もさることながら、大名たちとのあらゆる交渉を担い知将として活躍した、石川数正についてご紹介します。家康の懐刀とも称されながら、突然家康の下を去り、敵対していた豊臣秀吉の家臣になったことは、後世に大いなる謎を残し、現代でも様々な考察を生んでいます。ドラマでは、冷静に時代や戦況を読み、外交役として名のある戦国武将たちと渡り合う、家康からも他の家臣からも信頼を集める存在として、松重豊さんが演じられています。

石川数正の生涯

家康の子供時代から仕える重臣、石川数正

石川数正は、天文2年 (1533年)、徳川の前身である松平氏の家臣・石川康政の子として、三河国で生まれました。石川家は徳川四天王として知られる酒井忠次(演:大森南朋さん)や本多忠勝(演:山田裕貴さん)と同様に、「安祥譜代(あんじょうふだい)」と呼ばれる、徳川最古参の家臣とされる家柄で、祖父・清兼の妻が家康の母と姉妹であったなど、松平家との血縁もある家系です。

天文18年(1549年)に、7歳であった家康(当時の名は万千代)が今川氏の人質となり駿府(現在の静岡県)へ送られた際には従者を務め、それから12年間側近として仕えました。

忠義に厚い知将としての活躍

永禄3年(1560年)の「桶狭間の戦い」にて今川義元が織田信長(演:岡田准一さん)に敗れると、家康に信長との和睦を進言し調整役を果たしたり、家康が岡崎城へ戻ったのちも今川家に人質のままとなっていた、家康の嫡男・信康(演:細田佳央太さん)と、正室の築山殿(演:有村架純さん)の奪還を成功させたりと、早くから知将としての力を発揮します。

その後、三河一向一揆が起こった際は、父・康正が家康に敵対する一向宗の総大将となる中、浄土宗に改宗して家康に尽くし、その後も側近として重要な役割を担っていくこととなりました。

永禄12年(1569年)には、西三河の旗頭となり、東三河の旗頭・酒井忠次とともに、家康の両翼となって活躍。翌年以降、姉川の戦い、三方原の戦い、長篠の戦いなど数々の戦場で先鋒を務め、武勇もあげていきました。

天正10年(1582年)、本能寺の変にて信長が死去すると、勢力を強める豊臣秀吉(演:ムロツヨシさん)と家康が対立することとなります。数正はこの時、秀吉との交渉を任されました。更に、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでも、膠着状態に陥った戦の後処理を任され、秀吉との和睦交渉を進めたと伝えられています。

家康のもとを去った理由は?

多く重要な局面で力を発揮し、家康からも信頼されていた数正ですが、小牧・長久手の戦いの翌年、天正13年(1583年)に家康のもとから出奔(国や仕えていた主人のもとから逃亡すること)。なんと、敵対していた秀吉の家臣となったのです。

この出来事について、ドラマでは、負けると分かっている秀吉との戦を止めるため、秀吉の家臣になることを選んだというストーリーで描かれていますが、秀吉に説得された、秀吉との和睦を主張したことで他の家臣との折り合いが悪くなった、秀吉との戦を回避するため、家康がスパイとして送り込んだなど、さまざまな説が語られており、はっきりとした理由はわかっていません。

秀吉の家臣となった後、晩年は、秀吉より美濃国(現在の長野県)松本に10万石を与えられ、松本城の築城や、城下町の建設などに取り組みました。松本城の天守などの工事は、息子の康長が引き継ぎ完成させたとされ、それら城の一部は、国宝に指定されています。

数正は、文禄2年(1593年)、文禄の役(朝鮮出兵)に向かう際、肥前国(現在の佐賀県・長崎県)の陣中で死去。享年61歳であったと伝えられています。没年については、前年の文禄元年(1592年)であったとの説もあります。

岡崎にある石川数正のお墓〜本宗寺の供養塔〜

石川数正が生まれた地である愛知県岡崎市の本宗寺には、数正の供養塔が建てられています。

本宗寺は、蓮如上人が応仁 2年(1468)創建したお寺ですが、三河一向一揆で拠点になったことから、一度は家康に徹底的に破壊され、その後現在の場所に再建されました。
本堂の左手の一角に、和正の墓所として、供養塔が残されています。

墓所に建てられているのは、3基の宝篋印塔です。左の2基は苔むして年月が経っている様子が見られ、一番左のものは一番上に細長く立つ相輪を失っています。一番右のものは比較的新しく、大きな台座の上に置かれているため他の2基より高さがあります。台座は、蓮の花の形が彫られた、返り花座・蓮華座と呼ばれる形をしており、笠の四隅にある隅飾りが外側に大きく開いているのが特徴です。

宝篋印塔については、こちらの記事にて詳しく解説しています。
宝篋印塔の歴史と特徴をわかりやすく解説します

その他の菩提寺や供養塔

石川数正が晩年を過ごし、松本城の築城や城下町の整備を行った長野県松本市周辺にも、菩提寺や供養等が複数残っています。

兎川寺(とせんじ)(長野県松本市里山辺)

兎川寺は真言宗智山派の寺院で、境内に「石川数正夫妻之墓」として、五輪塔と見られる石塔が2基残されています。建てられた時期など詳しい記録は残っていません。
供養塔は、一番下の四角い石の高さがとても低くなっていますが、水輪と呼ばれる球形部分から上は、縦に長いデザインで、全体的に優しい印象のある供養塔です。

五輪塔については、こちらの記事にて詳しく解説しています。
五輪塔の歴史と特徴をわかりやすく解説します

宗林寺(長野県安曇野市)

光照山宗林寺は浄土宗の寺院です。江戸時代、松本城主であった数正の息子・康長が、父親の菩提を弔う為に再建、数正の戒名である「秋岳院殿高月宗林大居士」に因んで寺号を宗林寺としたと伝えられています。
この境内に、寛永年間(1624~1645年)に建立されたとされる石川数正夫妻の供養塔とされる宝篋印塔があります。サイズは小さく、更に一番上に立つ相輪を形成する一つ一つの部位が薄いため相輪全体が短いのが特徴です。安曇野市指定有形文化財に指定されています。

浄林寺(長野県松本市)

浄林寺は、浄土宗の寺院です。創建は中世、小笠原氏の創始と伝えられています。数正の息子・康長の代に菩提寺となり、数正を祀る廟所(びょうしょ)も建てられましたが、江戸時代に起きた火事により焼失しました。
なお、山門は、元禄時代の建造といわれており、松本市指定の重要有形文化財となっています。

正行寺(長野県松本市)

正行寺は、真宗大谷派の寺院で、数正と息子・康長の菩提寺とされています。数正が松本へ入り城下町の整備を始めた際、栗林村という場所にあった正行寺を城下に移転させ、更に康長が現在の場所へ移したと伝えられています。
数正は、真宗の東本願寺派と深い関わりがありましたが、三河一向一揆の際に浄土宗に改宗しています。その後家康は、一定期間信仰を禁止した後、真宗を許可したようです。そのような歴史もあり、数正がこの寺院を大切にしたのではと語られています。

まとめ

忠義に厚く、長年家康の片腕として活躍した石川数正。家康のもとから出奔した真意は現代でも謎のままです。しかし、生まれた土地だけではなく、晩年を過ごした松本周辺にも供養塔が残され、また夫婦の供養塔も建てられていることから、信念を持って生きた姿が、人々の信頼や敬意を集めたのかもしれません。

ぜひ現地に訪れ、厚い忠義の念を持ちながら大きな決断をした。数正の人生やその謎、歴史の波に、想いを馳せてみてはいかがでしょうか。

数正と関わりのある武将たちのお墓についても紹介していますので、ぜひご覧ください。
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本宗寺へのアクセス

自動車

東名高速道路「岡崎IC」より約12分

鉄道

名鉄「美合駅」下車 徒歩約7分