お役立ちコラム お墓の色々
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【逃げ上手の若君】時行の宿敵、足利尊氏のお墓はどこにある?

週刊少年誌で5年間続いた連載が最終回を迎え、7月よりアニメ第2期が放送予定である「逃げ上手の若君」。
主人公・北条時行(ほうじょう ときゆき)の最大の宿敵として描かれている足利尊氏(あしかが たかうじ)は、鎌倉幕府打倒の中核を担い、のちに室町幕府を開いた人物です。
北条氏や後醍醐天皇と対立し、新田義貞(にった よしさだ)や楠木正成(くすのき まさしげ)ら名だたる武将を破り、頂点へと上りつめ、初代将軍として240年続く室町幕府を開いた尊氏。
今回は、そんな足利尊氏の生涯と功績、そしてそのお墓がどこにあるかをご紹介いたします。
尊氏誕生
1305(嘉元3)年、鎌倉幕府の有力御家人であった足利貞氏(あしかが さだうじ)の子として尊氏は誕生しました。足利家は幕府内でも高い武力を背景に、執権を世襲していた北条家と近しい関係にありました。元服(げんぷく:現代の成人式)の折には、第14代執権北条高時より一字を与えられ、「高氏(たかうじ)」と改名しました。北条家と親しかった足利家は、幕府内でも特別な立場にあったといわれます。尊氏もまた、そうした環境下で優遇されていたのでしょう。
やがて尊氏は、北条家の本家筋ではないものの有力な分家であり、のちに鎌倉幕府最後の執権となる赤橋流の当主・北条守時(ほうじょう もりとき)の妹、赤橋登子(あかはし とうし)を正室に迎えます。
幕府倒幕と建武政権発足
1331年(元弘元年)、鎌倉幕府に対する朝廷側の攻勢が始まります。第96代天皇後醍醐天皇が鎌倉幕府を打倒するため挙兵、いわゆる元弘の乱が勃発。河内国(かわち:現在の大阪府南河内周辺)では楠木正成らが鎌倉幕府軍に抵抗し、さらに各地で反幕府の動きが広がっていきました。尊氏らの活躍によって一度は鎮圧、天皇も廃位され島流しにあいますが、反鎌倉幕府の勢いは収まらず、御家人たちの間にも動揺が走り、体制の足元は次第に揺らぎはじめます。
1333年(元弘3年)天皇が流刑地を脱し倒幕の綸旨を全国へ発し、その勢いはとどまることを知りませんでした。死去した父・貞氏の喪に服す最中にもかかわらずその討伐を命じられた尊氏は、後醍醐天皇方を鎮圧するため京都へ向かいました。尊氏は東国から西へ進み、近江~丹波を経て播磨方面(現在の兵庫県南西部)へと軍を進めますが、幕府方の士気は低く、戦況は思わしくありません。そこで尊氏は丹波国の篠村八幡宮(現在の京都府亀岡市篠町)にて幕府に反旗を翻すことを宣言し、京都に置かれていた幕府の出先機関・六波羅探題(ろくはらたんだい)を攻め落としました。
この転身は、倒幕の流れを一気に加速させました。同じころ関東では新田義貞が鎌倉を攻め落とし、約150年続いた鎌倉幕府は終焉を迎え、後醍醐天皇を中心とする建武政権が発足することとなります。
尊氏は義理の父をも裏切る形で幕府の有力武将から一転、倒幕の功臣として新体制を支える立場へと移ります。そして天皇より一字を賜り、「尊氏」と改名。この後の歴史は尊氏を中心に紡がれていきます。
中先代の乱
こうして始まった建武政権ですが、不十分な恩賞や公家中心の体制などにより武家の支持を得られなかったと言われています。
その間にも北条一族の残党が各地で蜂起し続けます。そんな中起こったのが、1335年(建武2年)、鎌倉で北条時行らが蜂起し、鎌倉を一時占拠した「中先代の乱」です。当時鎌倉にいた尊氏の弟・足利直義(あしかが ただよし)は時行らに敗れて敗走し、鎌倉を脱出します。その後尊氏が朝廷の許可を得ないまま軍を率いて東下し、最終的には鎌倉を平定します。
この反乱は、建武政権への不満を抱えていた武士たちを団結させ、時行達を中心に長年にわたり尊氏らと抗争を続けるきっかけとなりました。
中先代の乱平定後も尊氏は上洛命令に応じず鎌倉にとどまり、武士へ独自に恩賞を与え始めました。これに危機感を抱いた後醍醐天皇は、かつて倒幕を成し、今でも自分に近しい最大戦力・義貞に尊氏追討を命じます。
当初、尊氏は一度身を引く姿勢を見せましたが、やがて弟・直義とともに戦う決意を固めます。1336年(建武3年)、各地で衝突が本格化し、尊氏は京に至ります。その後1度は朝廷側に敗北を喫し、撤退するも「湊川の戦い」では朝廷側の正成・義貞の連合軍を破って再度京都に入り、朝廷側を都から追いやります。この出来事をきっかけに朝廷と足利勢力の対立は決定的なものへとなりました。
征夷大将軍へ任じられた尊氏
京都を掌握した尊氏は、比叡山へ退いてもまだ抗戦を続けていた後醍醐天皇に対し、三種の神器を渡し、皇位を光明天皇へ譲ることを条件に講和を提案します。後醍醐天皇がこれを受け入れたことで、武家を基盤とする新たな政治体制が整えられていきました。
1338(暦応元)年、尊氏は光明天皇から征夷大将軍に任じられ、ここに室町幕府が発足します。将軍として家臣団の信望を集めた尊氏ですが、実際の政務の多くは弟の直義が担っていたとも伝えられています。
その一方で、同年12月、幽閉されていた京都から脱走し吉野へ移った後醍醐天皇は光明天皇のもつ三種の神器は偽物で、本物の三種の神器を持つ自分こそが正統な天皇であるとして、独自の朝廷、いわゆる南朝を開きました。これにより、京都の北朝と吉野の南朝が並び立つ南北朝の時代へと突入します。
しかしその翌年8月に後醍醐天皇は崩御。当初は主従関係にあり、のちに長く対立した相手の死に際し、尊氏はその菩提を弔うため京都に天龍寺を創建しました。
直義との対立と、尊氏の最後
後醍醐天皇が崩御すると、南北の対立は収束するどころか、いっそう複雑さを増していきました。さらに幕府内では、将軍である尊氏と政務を支えてきた弟の直義の派閥間に亀裂が生じ、やがて足利家内部の大規模な争乱(観応の擾乱)へと発展してしまいます。
この争乱によって直義は一時幕政の座を追われ、兄弟による両頭体制は崩れました。その後、南朝勢力とも結びついた直義との対立は続きますが、いったんは両派閥同士での和解が成立し、直義は復帰します。しかし、いったん生じた亀裂は各所に広がり、直義は次第に孤立していきます。
やがて直義は職務を放棄し、鎌倉へと向かいます。尊氏は1351(観応2)年、南朝と一時的に和議を結び、直義追討へと踏み切り、複数の戦場で勝利。追い込まれた直義は鎌倉で捕らえられ、翌1352(正平7)年に世を去ります。南北両朝を巻き込んだ兄弟の抗争は終止符を打ちました。
しかし南朝との和睦も長続きせず、尊氏が京都を離れている際に和睦が破られ、争いが激化します。尊氏は嫡男の義詮(よしあきら)とともに鎌倉〜京都を行き来し、一進一退の難局にあたりましたが、1358(延文3)年、京都にて病(※死因については諸説あり、背中に生じた腫瘍の悪化とも伝えられています)に倒れ、53才でその生涯を閉じました。
主君であった北条家、一度は支えた後醍醐天皇、そして最も近しい弟との関係性の中で揺れ続けた尊氏の人生は、ついに南北朝統一を見ることなく幕を下ろしました。
足利尊氏のお墓はどこにある?
足利尊氏のお墓は、足利家の菩提寺である京都市北区の等持院にあります。境内の一角に静かに佇む宝篋印塔は、南向きに建てられており、正面の入口も同じく南を向いています。台座の四面には格狭間 (こうざま/装飾的な透かし彫り)が丁寧に施され、宝瓶に蓮華を挿した意匠が刻まれており、室町時代の特色を今に伝えております。さらに、台座正面には「延文三年四月」の銘が刻まれており、建立当時の年代をうかがい知ることができます。
【等持院】京都府京都市北区等持院北町63−19−1 63番地 等持院
また、尊氏の邸宅(山荘)があった場所に創建されたと伝わる北鎌倉にある長寿寺の境内裏山には、山や崖を掘って造られた、この時代の鎌倉周辺のみで見られる独特な横穴式のお墓「やぐら」があり、そこには足利尊氏の遺髪を納めたと伝えられる墓が残されています。長寿寺を創建したのは尊氏ですが、その後寺のことを任されたのは次男の足利基氏(もとうじ)でした。基氏は父・尊氏を偲び、その遺志を受け継ぐかたちで、この寺をさらに発展させたと伝えられています。季節および曜日限定での公開となるため、行かれる際はHPなどをご確認されると良いかもしれません。
【長寿寺】神奈川県鎌倉市山ノ内1503
さらに滋賀県の安楽寺には尊氏の爪墓があります。尊氏が北国街道を進軍していた際にこの地にさしかかった際、愛馬が突然ぴたりと足を止めてしまい、いくら促しても動かないという出来事が起こりました。不思議に思った尊氏が寺の和尚に尋ねると、「近くの石にたたりがある」と言われた尊氏は、その石を寺に納め、丁重に供養するよう願い出ます。すると、それまで動かなかった馬が何事もなかったかのように再び歩みを進めたと言われています。これを吉兆と喜んだ尊氏は、寺に御朱印と長刀を贈ったと伝えられています。 さらに尊氏は、「自分が亡くなったならば、自画像と位牌を安楽寺に納め、爪を埋めて供養してほしい」と言い残したともいわれます。その言葉通り爪が納められたお墓が今も存在しているのです。
【安楽寺】滋賀県長浜市細江町105
まとめ
尊氏は、弓削道鏡(ゆげのどうきょう)・平将門(たいらのまさかど)と共に日本三悪人の一人に挙げられることがあります(史料によって異なります)。分かり易いものが二度の裏切りです。鎌倉幕府に背き、次いで後醍醐天皇にも刃を向けた。この流れだけを見れば、情を捨て去った冷酷な陰謀家という印象を抱く人もいるでしょう。その姿は、三国志の曹操にも通じるものがある、と評されることもあります。
さらに南北朝の対立を招き、争いを長期化させた中心人物とみなされてきたことも、評価を厳しくする一因です。
ただ、悪人と評される一番の原因は、戦前の「天皇絶対主義」という価値観のもとで、天皇に背いた人物という一点です。とりわけ明治から昭和初期にかけては、天皇に刃向かったとされる人物は否定的に語られがちだったのです。
その一方で、尊氏が鎌倉幕府から離反した背景には、父の法要を十分に営むことすら許されなかったという出来事もありました。そこには、父への思慕と家への責任を重んじる心情がありました。単なる野心や謀略だけでなく、情に厚く、慈悲深い一面もまた確かに存在していたはずです。
また、後醍醐天皇との関係が緊迫した際、尊氏は自ら髪を剃り落として寺にこもり、戦いを避けようとしたとも伝えられます。結果として武力衝突に至り、南北朝時代という長く続く戦乱の世へと移行する事態となりましたが、もしかしたらそれは尊氏にとっても本望とは言い切れない選択だったのかもしれません。
評価は時代によって揺れ動きます。尊氏という人物は単純な善悪では割り切れない、複雑な立場に置かれた武将の一人だったのではないでしょうか。
足利尊氏の墓前に立てば、後醍醐天皇を支え、義理の父のいる鎌倉幕府を討ち、新政府を立ち上げ、平和が訪れるかと思いきや後醍醐天皇と対立したうえ、弟である直義とまでも対立し、生涯戦いを続けざるをえず、理想と現実のはざまで揺れ動いた一人の武将の覚悟や、その生きざまが、墓前に立つ私たちの心に染み入ってくるかもしれません。
お墓は、ただ故人を偲ぶためだけの場所ではありません。そこには、家族との絆や幾重もの出会い、その人が歩んできた年月や胸に抱き続けた想いが、静かに息づいています。墓前に立つということは、そうした人生の物語にそっと心を重ね、傍らにいる誰かと語らいながら、記憶を受け取り、また次へとつないでいく時間でもあるのではないでしょうか。
歴史上の人物の墓を訪ねれば、偉人もまた一人の人間であったと実感し、「お墓とは何のためにあるのか」をあらためて考えるきっかけにもなります。こうした供養への想いは、自身の家族のお墓について考える機会にもつながります。
お墓の継承や建て替え、墓じまいなどに迷った際は、石材店へ相談することも一つの方法です。
お付き合いのある石材店が特にない場合は、以下の記事を参考に、ご自身に合った石材店をお探しになってみてはいかがでしょうか。
逃げ上手の若君の主人公、北条時行の記事もあります。あわせてお読みください。
◆鎌倉を3度奪還した男・【逃げ上手の若君】北条時行のお墓はどこにある?
鎌倉幕府最後の源氏将軍・源実朝の記事もあります。
マナーに十分注意した上で、いろいろなお墓に参ってみてはいかがでしょう。