お役立ちコラム お墓の色々
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【鬼の副長】新選組・土方歳三のお墓はどこにある?

多くのドラマや小説の題材として取り上げられる新選組。その中でも土方歳三(ひじかた としぞう)は、屈指の人気を誇る人物です。映画「ゴールデンカムイ」や実写映像化もされた大人気漫画「ちるらん 新選組鎮魂歌』などでも描かれるなど衰えることがありません。さらに、人気漫画「銀魂」に登場する土方十四郎のように、フィクションの世界においてもその人物像は色濃く反映され、今でも多くのファンを魅了し続けています。
土方歳三と聞いて多くの人が思い浮かべるのは、厳格な規律で隊を統率し「泣く子も黙る」と恐れられた「鬼の副長」としての姿ではないでしょうか。幕末、京都の治安維持のために結成された新選組の副長として、規律を乱す者には切腹を命じるなど、組織の統制に徹していたことで知られています。
しかしその一方で、激動の時代の中で新撰組を支え続けた土方歳三の存在は、単なる一武士にとどまらず、幕末の動乱の中で幕軍を象徴する人物として語り継がれてきました。
今でもある種のロマンを持って描かれるその生きざまの裏には、家族を早くに失いながらも、自らの信念を貫き続けた一人の人間としての歩みがあります。規律に厳しく、ときに非情とも評されるその姿勢の背景には何があったのでしょうか。
今回は、土方歳三の生涯と功績、そしてそのお墓がどこにあるのかについてご紹介します。
バラガキと呼ばれた少年時代
土方歳三は、1835年5月31日(天保6年5月5日)、武蔵国多摩郡石田村(現在の東京都日野市)に、10人(4人は早くに亡くなっているため6人ともいわれる)兄弟の末っ子として生まれました。家は「石田散薬」という家伝薬を製造・販売する富農で、地域でも知られた存在でした。
しかし幼い頃に両親を相次いで亡くし、その後は兄夫婦のもとで育てられます。恵まれた家に生まれながらも、早くに家族を失った経験は、のちの厳格で実直な人柄の形成に影響を与えたともいわれています。
少年時代の歳三は、武士への強い憧れを抱き、持ち前の気性の激しさから「バラガキ(いばらのとげのように触るとケガする危ない奴・やんちゃ坊主)」と呼ばれることもありました。10代の頃から呉服屋に奉公に出たと伝えられています。その後は実家の家業である「石田散薬」の行商に携わるようになり、多摩や関東各地を巡る中で見聞を広めていきました。
天然理心流へ入門
行商の傍ら、歳三は姉「のぶ」の夫である佐藤彦五郎の道場で剣術の腕を磨き、やがて本格的に武芸の道へ進むことを志します。彦五郎は天然理心流の道場・江戸試衛館を率いる近藤周助の弟子であり、周助の養子・近藤勇と義兄弟の契りを結んでいるほどの近しい関係にありました。
この縁により、歳三は江戸試衛館へ出入りするようになり、やがてそこに住み込みます。ここで後の新選組隊長・近藤勇や一番隊組長・沖田総司らと出会い、志を同じくする仲間たちと切磋琢磨する日々が始まりました。江戸試衛館での修行は、後に新選組副長として名を馳せる歳三の基盤を築いた重要な時期であり、その人生を大きく方向づける転機となったのです。
浪士組の土方歳三
歳三が歴史の表舞台へと歩みを進める大きな契機となったのが、文久3年(1863年)に結成された「浪士組」への参加でした。
当時、江戸幕府は将軍・徳川家茂の上洛に伴う警護のため、江戸で浪士を募り、京都へと派遣していました。これが浪士組です。養父の周助から江戸試衛館を引き継いだ勇を筆頭に、師範代となっていた歳三や総司らを含めた門弟たちもこれに加わり、京へ向かいました。
しかし、浪士組はその発起人である清河八郎が、尊王攘夷を掲げる浪士たちをまとめるために結成を呼び掛けた組織であり、その方針は必ずしも幕府寄りとはいえませんでした。やがて、本性を現した八郎が「浪士組は将軍警護ではなく、尊王攘夷のために行動すべき」と主張し、江戸への帰還を命じます。
これに対し、歳三ら江戸試衛館の一派は、京都に残って将軍警護の任に当たることを決断。八郎の方針に従わず、そのまま京に留まりました。こうして浪士組は事実上分裂し、京都に残った一隊は会津藩主・松平容保(まつだいら かたやす)の預かりとなります。
当初は「壬生浪士組」と呼ばれていた歳三たちですが、京都の治安維持や市中取締に尽力する中で次第に頭角を現し、やがて正式に幕府の配下組織として認められるようになります。そして同年、「新選組」の名を与えられ、ここに歴史に名を残す剣客集団が誕生しました。
歳三は副長として組織運営を担い、厳格な規律をもって隊をまとめ上げていきます。こうして新選組は、動乱の京都において存在感を強めていくことになるのです。
池田屋事件
新選組の名を一躍知らしめた出来事が、元治元年(1864年)6月5日に起きた「池田屋事件」です。
当時の京都では、尊王攘夷派の志士たちによる過激な活動が相次ぎ、治安は極めて不安定な状況にありました。そんな最中、新選組は御所への放火や有力公家の拉致など、大規模な計画が進められているとの情報を掴みます。
この情報をもとに、新選組は市中の探索を強化。勇を隊長とする本隊と、歳三が率いる別動隊に分かれ、志士たちの潜伏先を探りました。その結果、三条木屋町にある旅籠「池田屋」に不審な動きがあることを突き止めます。
6月5日の夜、勇を中心とする少数の隊士が池田屋へ踏み込み、内部にいた長州藩や土佐藩の志士たちと激しい斬り合いとなりました。室内での剣刃の応酬は、狭い空間での乱戦となり、まさに死闘と呼べる凄まじいものでした 。
やがて遅れて到着した歳三の隊が合流すると、戦局は一気に新選組優勢へと傾きます。この戦いで志士側には死者・負傷者・捕縛者が多数出た一方、新選組側も無傷とはいかず、複数の死傷者を出しましたが、結果として計画を未然に阻止することに成功しました。
池田屋事件の功績により、新選組は幕府や容保から高く評価され、京都における治安維持組織としての地位を確固たるものとします。一方で、この事件は尊王攘夷派との対立をさらに激化させる契機ともなり、やがて禁門の変へとつながっていくことになります。
この池田屋事件は、新選組の名声を決定づけたと同時に、歳三たちが幕末の動乱の中心へと躍り出ていく転機となった出来事でした。
新選組の終焉
池田屋事件の同年7月、長州藩が起こした禁門の変でも、新選組は厳しい陣中法度を部隊に課し、不退転心の覚悟で活躍し、長州軍を退けます。これを機に長州勢力は京都から排除されたものの、幕府と反幕勢力の対立はさらに深まり、時代は急速に倒幕へと傾いていきました。
その後、新選組内部でも変化が生じます。元治元年から慶応年間にかけて、隊内の粛清や抗争が相次ぎ、組織は大きな転換期を迎えました。歳三は副長として規律を徹底し、組織の引き締めを図りますが、その厳しさは隊士たちに大きな緊張を強いるものであったといわれています。
やがて1867年、15代将軍・徳川慶喜が大政奉還を行い、政権は朝廷へ返上されます。しかしその後も旧幕府勢力と新政府軍の対立は収まらず、翌1868年、戊辰戦争が勃発しました。
新選組は旧幕府軍として各地を転戦しますが、鳥羽・伏見の戦いで敗北。これを機に戦局は新政府軍優勢へと傾きます。戦いの中で局長・勇が捕らえられ、処刑されたことで、事実上組織としての新選組は崩壊します。
その後も歳三は生き残った隊士を率いて各地を転戦し、組織の再建を図りますが、戦局の悪化は避けられず、隊は次第に離散。かつて京都の治安を守り抜いた精鋭集団・新選組は、ここに事実上の終焉を迎えることとなります。
それでも歳三は最後まで戦い続け、旧幕府勢力とともに北へと向かっていくのです。ここから舞台は、箱館戦争へと移っていきます。
土方歳三の最後
歳三は旧幕府勢力とともに蝦夷地(現在の北海道)へと渡りました。ここで新たな拠点を築き、徹底抗戦の構えを見せます。
やがて旧幕府軍は、榎本武揚を中心に「蝦夷共和国」を樹立し、日本で初めてとされる選挙による政権を成立させました。歳三はその中で陸軍奉行並という要職に就き、軍事面で重要な役割を担います。
しかし、新政府軍もこれを見過ごすことはなく、明治2年(1869年)、ついに蝦夷地へと進軍。こうして箱館戦争が本格化しました。新政府軍は近代兵器と豊富な兵力を背景に、次第に旧幕府軍を圧倒していきます。
歳三は各地を転戦しながら防戦に尽力し、とくに二股口の戦いでは巧みな戦術によって新政府軍の進撃を食い止めるなど、最後まで卓越した指揮官としての手腕を発揮しました。しかし戦局の不利は覆らず、旧幕府軍は 最終決戦の地・五稜郭へと追い詰められていきます。
そして明治2年(1869年)5月11日、土方は箱館市内での戦闘に出陣。一本木関門付近において、新政府軍の銃撃を受け、戦死したと伝えられています。享年35という若さでした。
同郷であり同志でもあった仲間を失い、組織が崩壊してもなお戦い続けた土方の最期は、まさにその生き様を象徴するものでした。激動の幕末を駆け抜け、「鬼の副長」として恐れられた男は、最後まで武士としての誇りを胸に戦場に散ったのです。
土方歳三のお墓はどこにある?
歳三の墓所として広く知られているのが、東京都日野市にある石田寺(せきでんじ)に建てられた「土方歳三之墓」です。生まれ故郷に近いこの場所は、今も多くの人が訪れる歳三ゆかりの地として大切に守られています。境内には、土方歳三の名を刻んだ墓碑が静かにたたずみ、その生涯に思いを馳せることができます。
箱館で戦死したと伝えられていますが、遺体は回収されなかったとされており、確かな埋葬地は分かっていません。そのため石田寺の墓は、遺骨が納められている実墓ではなく、後世に建てられた供養墓とされています。
供養墓とは、 遺体の一部や遺品、写経を納めて供養・慰霊のために造られたお墓のことです。
実際に歳三の遺骨が埋葬されていないとしても、この地が多くの人々にとって特別な意味を持つのは、歳三がこの日野の地で生まれ育ち、激動の時代へと歩み出していった原点であるためです。武士としての誇りを胸に、最後まで戦い抜いたその生涯は、今もなお語り継がれ、歳三のお墓を訪ねて、在りし日を偲ぶ人々が絶えることはありません。
【愛宕山 石田寺】東京都日野市石田1丁目1−10
また、終焉の地とされる函館市五稜郭付近にも、歳三をしのぶ碑がいくつか残されています。歳三が新政府軍の銃撃を受け、戦死したと伝えられる五稜郭の一本木関門付近。その最期を伝える石碑は若松緑地公園内の中にひっそりと佇み、当時の様子を今に伝えています。
【土方歳三最期の地碑】北海道函館市若松町33−6
さらに箱館戦争で命を落とした旧幕府軍(新選組を含む)を弔うために建てられた「碧血碑(へっけつひ)」という慰霊碑が函館山のふもとに建てられています。 「碧血」とは「義に殉じた武士の血は三年を経て碧玉となる」とする中国の故事に由来する言葉で、国内最大の内戦である戊辰戦争で命を落とした旧幕府軍、すなわち土方歳三ら約800人の義に殉じた武士たちへの慰霊の意を込めて用いられています。
【碧血碑】北海道函館市谷地頭町1
まとめ
土方歳三は、幕末という激動の時代の中で新選組を支え続け、箱館の地でその生涯を閉じました。しかし、その志がそこで途絶えたわけではありませんでした。歳三が生涯をかけて貫いた武士としての誇りと忠義、組織を守り抜こうとする強い信念は、時代を超えて語り継がれていくことになります。
局長である近藤勇を支え、局長亡きあとも、最後まで副長として組織をまとめようと奮闘した歳三の姿は、日本の歴史の中でも特別な存在となりました。剣の腕だけでなく、厳格な規律によって隊を統率した統率力、そしてどのような状況にあっても信念を曲げない覚悟と幕府への忠節は、今もなお多くの人々の心を惹きつけています。
生まれ故郷の石田寺に建てられた墓前に立てば、誇りを胸に戦い抜き、最後まで己の武士道を貫いた土方歳三の熱い想いを感じ取れるかもしれません。
お墓は、亡き人を悼む場であると同時に、その人が生きた歳月や想い、家族とのつながりを静かに伝える場所です。墓前に立つことは、物語に心を寄せ、記憶を分かち合う時間でもあります。歴史上の人物の墓を訪ねれば、偉人もまた一人の人間であったと実感し、「お墓の意味」をあらためて見つめ直すきっかけとなるのではないでしょうか。その気づきは、自身の家族のお墓について考える機会にもつながります。
お墓の継承や建て替え、墓じまいなどに迷った際は、石材店へ相談することも一つの方法です。
お付き合いのある石材店が特にない場合は、以下の記事を参考に、ご自身に合った石材店をお探しになってみてはいかがでしょうか。
マナーに十分注意した上で、いろいろなお墓に参ってみてはいかがでしょう。
坂本龍馬のお墓について紹介した記事や、幕末の偉人たちのお墓をまとめた記事もあります。あわせてお読みください。