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【虎に翼】三淵嘉子のお墓はどこにある?

2024年に放送され、大きな話題となったNHK連続テレビ小説『虎に翼』。主人公・猪爪寅子のモデルとなったのが、実在の法曹・三淵嘉子(みぶち よしこ)さんです。
2027年1月15日には、劇場版『虎に翼』の公開も予定されています。劇場版では、ドラマのその後を描くだけでなく、ドラマでは描かれなかったエピソードや、寅子が挑む「最後の事件」が描かれる予定です。
映画をきっかけに、あらためて注目したいのが、寅子のモデルとなった三淵嘉子さんの人生です。今回はドラマの物語から少し離れ、実在した一人の女性法曹が歩んだ道と、そのお墓についてご紹介します。
法律を学ぶ道を選んだ三淵嘉子
三淵嘉子さんは1914年11月13日、父・武藤貞雄さんの赴任先であるシンガポールで生まれました。その後、父のニューヨーク勤務に際して、嘉子さんらは帰国し、父の出身地香川県丸亀市で幼年期を過ごします。1920年に父が日本に戻るのに合わせ、一家そろって東京に移り、東京の街で成長します。
嘉子さんが法律を学び始めたのは1932年です。
当時法曹界に進むためには文部省指定校に進まねばならなかったのですが、ほとんどの法学部が男性のみに限定されており、女性が法律家を目指すことは至難の道でした。そもそも1933年の弁護士法改正によって女性にも資格取得への道が開かれるまで、当時の弁護士資格は男性に限られていました。女性に開かれた道はただ一つ明治大学専門部女子部法科を卒業し、文部省指定校の明治大学法学部に編入することでした。
嘉子さんは法律を学び続け、1935年に明治大学法学部へ編入。1938年には、今の司法試験の前身である高等試験司法科試験に女性として初めて合格した3人のうちの一人となりました。
その後、1940年に弁護士登録。初の女性資格者である中田正子さん、久米愛さんとともに、日本初の女性弁護士の一人として法曹界へ進みました。
戦後、裁判官への道へ
弁護士として歩み始めた嘉子さんでしたが、戦争によってその活動は大きな影響を受けることになります。徴兵や空襲による疎開など、戦時下において社会全体が大きく変化し、法律家として自由に活動することも難しい時代でした。
そして終戦を迎えると、日本の社会や法律制度は大きく変わり始めます。
特に、家族制度をはじめとする戦前の仕組みが見直され、新しい法律や制度をつくるための動きが進められました。嘉子さんもこうした変化の中で、法曹として新しい時代に関わっていくことになります。
1947年には司法省の民法調査室に入り、戦後の民法改正、なかでも家族法の改正に関わる仕事に携わりました。女性の権利や家族のあり方が大きく変わろうとする時代の中で、嘉子さんは法律をつくる側の仕事を経験します。1949年には東京地方裁判所の判事補に任用され、今度は裁判官として人々の人生に向き合う道へ進みました。
そして1952年には名古屋地方裁判所で日本初の女性判事となります。その後、東京地方裁判所や東京家庭裁判所などで裁判官を務め、民事事件だけでなく、少年事件や家庭に関わる問題にも向き合いました。
数多くの事件にかかわった嘉子さんですが、なかでもその関りを知られているのが、東京地方裁判所時代に担当した「原爆裁判」です。広島・長崎への原爆投下をめぐり、被爆者が国に損害賠償を求めた裁判で、1963年の判決では請求自体は棄却されたものの、原爆投下について日本の裁判所として初めて国際法違反との判断が示されました。3人で務める裁判官のうち、他の2人は交代していく中、嘉子さんはこの裁判を第一審から結審まで8年間担当し続けたただ一人の裁判官でした。
家庭裁判所で少年たちと向き合う
嘉子さんの歩みを語るうえで、「原爆裁判」以上に家庭裁判所での少年との関りが欠かせません。東京家庭裁判所では少年事件などを担当し、法律だけでは解決できない、家庭や社会をめぐる問題と向き合いました。明治大学の資料によると、嘉子さんは少年審判に携わる中で、単に事件を裁くのではなく、その背景にある少年たちの生活や家庭環境にも目を向けていました。
そして1972年、新潟家庭裁判所長に就任。女性として初めて家庭裁判所長となりました。
その後、浦和家庭裁判所長、横浜家庭裁判所長などを歴任し、1979年に退官しています。
長年にわたって法曹界で活躍した三淵嘉子さんは、1984年5月28日に69歳で亡くなりました。83年ごろから体に痛みを感じるようになり、検査の結果、骨からがん細胞が見つかったとされています。死因については「骨がん」「転移性骨がん」、「肺炎」による死去など、複数の記録があります。
三淵嘉子さんのお墓はどこにある?
三淵嘉子さんのお墓は、神奈川県小田原市の霊寿院にあります。
霊寿院は、現在、日曜日の午前11時から午後2時まで一般公開されている三淵家の別荘「甘柑荘(かんかんそう)」の裏手にあります。
霊寿院本堂の横にある墓域には、3基のお墓が並んで建てられています。その真ん中に「三淵氏の墓」と刻まれたお墓があり、その中に嘉子さんと夫の三淵乾太郎さんが眠っています。
向かって左側には乾太郎さんの父であり、初代最高裁判所長官を務めた三淵忠彦さんのお墓(三淵忠彦之墓)が隣り合うように建っています。向かって右側には、忠彦さんの三男の家系である「三淵震三郎家之墓」があります。
【霊寿院】神奈川県小田原市板橋820
また、父の出身地であり、嘉子さんが幼年時代を過ごした香川県丸亀市の本行寺にも分骨され、納骨されたお墓があります。本行寺の境内にある墓所には、嘉子さんのほか、最初の夫・和田芳夫さん、息子の和田芳武さんらが眠っています。
墓石には、嘉子さんが最初の結婚で名乗っていた「和田嘉子」という名前が刻まれています。
太平洋戦争中に中国で亡くなった芳夫さん。嘉子さんは生前、芳夫さんと同じ墓に入りたいという思いを抱いていたとされ、その願いに沿う形で遺骨の一部が分骨され、この墓所に納められています。
すぐ南側には生家の「武藤家」のお墓もあり、御両親、御兄弟も眠っています。 墓碑は縦長で、装飾を抑えたシンプルな造りとなっており、落ち着いた印象を受けます。
【本行寺】香川県丸亀市葭町67
その人物が生きた時代や想いを現代へ伝える場所・お墓
ドラマでは、主人公・寅子が法律を学び、弁護士となり、やがて裁判官として人々の人生に向き合っていく姿が描かれました。もちろん、ドラマは嘉子さんの人生をそのまま再現したものではなく、登場人物や物語には創作が加えられています。それでも、女性が法律を学ぶことさえ難しかった時代に法曹を志し、弁護士、裁判官、そして家庭裁判所長へと歩んだ三淵嘉子さんの人生には、ドラマのモデルとなるだけの大きな挑戦がありました。
三淵嘉子さん墓を訪ねれば、ドラマの主人公のモデルというだけではない、一人の女性法曹としての三淵嘉子さんの姿を感じられるのではないでしょうか。
お墓は、亡き人を悼む場であると同時に、その人物が生きた時代や想いを現代へ伝える場所でもあります。歴史上の人物の墓を訪ねることは、その人の人生に触れ、自分自身の生き方や家族とのつながりを見つめ直すきっかけになるかもしれません。
お墓の継承や建て替え、墓じまいなどに迷った際は、石材店へ相談することも一つの方法です。
お付き合いのある石材店が特にない場合は、以下の記事を参考に、ご自身に合った石材店を探してみてはいかがでしょうか。
マナーに十分注意した上で、いろいろなお墓に参ってみてはいかがでしょう。
三淵嘉子さんのように、時代の中で活躍した女性たちについて紹介した記事もございます。あわせてご覧ください。