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『どうする家康』でも注目!戦場でも活躍した側室、阿茶局のお墓

墓地・墓石コラム

『どうする家康』でも注目!戦場でも活躍した側室、阿茶局のお墓

2023年のNHK大河ドラマ「どうする家康」では、松本潤さん演じる徳川家康が、駿河国・遠江国(現在の静岡県)の守護大名・今川義元(演:野村萬斎さん)のもとで人質としての幼少時代を過ごし、弱小国と言われた三河国(現在の愛知県東半部)の主となったのち、天下統一を成し遂げていくまでの波乱の生涯が描かれます。

今回は、徳川家康に最も愛された側室とも言われ、武芸と馬術に優れ、戦場にも自ら騎乗し同行していたという阿茶局(あちゃのつぼね)について紹介します。才知に長けた女性として知られており、数々の重要な交渉役を務めるなど、政治面で大きな功績を残しました。ドラマでは、危機的状況も冷静に切り抜け、力強く徳川家を支える姿を、松本若菜さんが演じておられます。

阿茶の局の生涯

家康の側室となるまで

阿茶局は、天文24年(1555年)弘治元年、武田家の家臣である飯田直政の娘として生まれました。本名は須和(すわ)と伝えられています。
武田氏と今川氏が和睦し、飯田直政が今川氏の家臣として迎えられた後、天正元年(1573年)、19歳の時に今川家家臣・神尾忠重と結婚。2人の息子が生まれますが、忠重は結婚のわずか4年後(3年後とも言われる)に亡くなってしまいました。息子を抱えた阿茶局は一人路頭に迷ったとも言われています。
その後、家康の最初の正室である築山殿(演:有村架純さん)が亡くなったのと同じ天正7年(1579年)に、家康の側室となりました。

側室ながら才知を発揮する

阿茶局は、才知に長け家康からの多大な信頼を得ていたと言われ、戦場にもたびたび同行していたようです。天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いの際には、陣中で流産したとの記録が残されています。
その後も、家康との間に子は生まれませんでしたが、天正17年(1589年)、家康の側室の一人で、家康の三男・秀忠の母であるお愛の方(西郷局/さいごうのつぼね)が亡くなると、秀忠の養育を担当。さらに、大奥の一切を任されその統制に力を尽くしました。

また、家康が天下を取る大切な場面でも、阿茶局は重要な働きをしています。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いは、小早川秀秋(演:嘉島陸さん)が西軍(石田三成側)を裏切り、東軍(徳川家康側)に味方したことで東軍の勝利が決定的となったと言われていますが、その交渉を行ったのが阿茶局でした。
さらにその後、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、和睦の使者として秀吉の側室・淀殿(茶々/演:北川景子さん)の妹である常高院(じょうこういん)らと交渉し、見事に和睦を成立させました。この時、阿茶局が常高院に豊臣側の代表となるよう説得したと伝えられています。

阿茶局は、第2代将軍となった徳川秀忠からも頼りにされていたようです。秀忠は家康から、鷹狩りのための禁猟区の管理を任されていました。その禁猟区に罠を設置するのを秀忠の家臣が無断で認めていたことに、家康が激怒し、その家臣らに切腹を命じようとする事態になった際、まず、阿茶局に取りなすよう頼んだというエピソードが残されています。

家康の死後

元和2年(1616年)家康が病気でこの世を去ります。
当時は、落飾(らくしょく)といい、将軍が死ぬと、その妻や側室は髪(=飾)を剃り落として出家し(仏門に入り)、将軍の冥福を祈りながら静かに暮らすことが習慣となっていました。しかし、家康の遺言により、19名ないしそれ以上いたとされる側室の中でただ一人、阿茶局だけは落飾しませんでした。仏門に入らないままで名前のみ「雲光院」とし、その後も徳川家を支えていくこととなります。

元和6年(1620年)、秀忠の娘が後水尾(ごみずのお)天皇に入内する際、母親代わりとして京都へと上洛。皇女が生まれた際にも上洛して世話をしたと言われ、天皇より臣下の女性としては最高位である従一位という冠位を賜りました。

寛永9年(1632年)に秀忠が病気でこの世をさると、阿茶局は正式に落飾。剃髪して仏門に入ります。その後、第3代将軍・家光からも手厚くもてなされ、豊かな晩年を過ごしたのち、寛永14年(1637年)に享年83歳でこの世をさりました。

阿茶局のお墓である雲光院(東京都江東区三好)

雲光院(東京都江東区三好)

雲光院は、正式名を「龍徳山 雲光院(りゅうとくざん うんこういん)」とする浄土宗の寺院です。都立庭園の一つで「名石の庭」とも言われる清澄庭園の東に位置しています。

慶長16年(1611)、阿茶局自身が家康の許しを得て開創したとされ、幾度かの火災、関東大震災、太平洋戦争東京大空襲により被災しましたが、戦後、昔の深川地区であった現在の場所に再建を果たしました。

阿茶局のお墓

境内には、阿茶局の供養塔である、石造宝篋印塔(ほうきょういんとう)が残されています。
この供養塔は、高さ約3.6mの安山岩製。塔の上部に立つ相輪は太く、全体に重厚さを感じる形をしています。塔身正面には「雲光院殿従一位尼公」、他の面には阿弥陀三尊の種子(しゅじ=梵字)が刻まれ、基礎の正面には「正誉周栄大姉寛永十四丑丁年正月廿日」と記されています。江東区の指定有形文化財にもなっています。

宝篋印塔については、こちらの記事で詳しく解説しています。
宝篋印塔の歴史と特徴をわかりやすく解説します

まとめ

世継ぎをもうけることはありませんでしたが、特に政治面においてその才覚をいかんなく発揮し、最期まで誠実に徳川家を支え続けた阿茶局。家康の死後も手厚い処遇を受けたと伝えられていることからも、家康にとどまらず多くの信頼を集めていたことが伺えます。

寺院の復興は、雲光院開創400年の記念事業の一環として行われています。過去に幾度も被災し、建物やご本尊、更には過去帳、宝物なども全て焼失してしまったにもかかわらず、多くの人の手で菩提寺とそのお墓が守られてきたのは、その活躍と功績が後世にまで伝えられている証と言えるでしょう。

ぜひ現地を訪れ、戦乱の中を逞しく誠実に生きた阿茶局の姿に想いを馳せてみてはいかがでしょうか。

徳川家康に大きな影響を与えた女性については、他の記事もございますので合わせてご覧ください。
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雲光院への交通アクセス

自動車

首都高速9号深川線 木場出口より約5分

鉄道

東京メトロ半蔵門線 清澄白河駅 徒歩約8分