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『どうする家康』でも注目!家康の苦難の時代を支えた側室・於愛(おあい)の方のお墓

墓地・墓石コラム

『どうする家康』でも注目!家康の苦難の時代を支えた側室・於愛(おあい)の方のお墓

2023年のNHK大河ドラマ「どうする家康」では、松本潤さん演じる徳川家康が、駿河国・遠江国(現在の静岡県)の守護大名・今川義元(演:野村萬斎さん)のもとで人質としての幼少時代を過ごし、弱小国と言われた三河国(現在の愛知県東半部)の主となったのち、天下統一を成し遂げていくまでの波乱の生涯が描かれます。

今回ご紹介する於愛の方は、西郷局(さいごうのつぼね)とも呼ばれ、苦難の中にあった家康を側室として支えた女性です。江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の母としても知られており、ドラマの中では、愛嬌と優しさで徳川家を支える姿を、広瀬アリスさんが演じておられます。

於愛の方の生涯

生まれと、夫との別れ

於愛の方(お愛の方・お相の方)は、現在の静岡県西部、遠江国(とおとうみのくに)出身の武将・戸塚忠春と、母・於さいの間に生まれます。しかし、幼少期に父・忠治と兄の忠家が討ち死したため、祖父である西郷正勝に保護されたと伝えられています。通説では永禄5年(1562年)の生まれとされていますが、諸説あり、はっきりとは分かっていません。

その後、正勝の嫡孫・西郷義勝の妻となり子を授かりますが、間もなくして、義勝は戦で命を落としてしまいます。息子はまだ幼く家督を継ぐことができなかったため、叔父である西郷清員(きよかず)の元へ身を寄せました。一説には、義勝の前に最初の夫に嫁ぎ、先立たれていたとも言われています。

家康の側室に

父も夫も亡くし、叔父・西郷清員のもとで暮らしていた於愛の方ですが、天正6年(1578年)、家康に見初められ側室となります。
二人の出会いについては、容姿端麗で教養もあったとされる於愛の方の噂が、家康の耳に届いたことがきっかけであったという話も残されています。

浜松城に入った於愛の方は、西郷局(さいごうのつぼね)とも呼ばれるようになり、三方原の戦い・設楽原の戦い・小牧長久手の戦いなど、戦が続く苦難な時代の家康を支えました。明るく穏やかな人柄から、家康からの信頼も厚く、家臣や侍女からも大変慕われていたと伝えられています。

天正7年(1579年)には、のちに江戸幕府2代将軍となる秀忠(演:森崎ウィンさん)を、翌年の天正8年(1580年)には、尾張清洲藩主となる忠吉を産みました。

於愛の方の最期

お愛の方は、家康と共に浜松城から駿府城へ移ったのち、天正17年(1589年)に死去。享年は28歳とも38歳とも言われはっきりしませんが、いずれにしても、若くしてこの世を去ることとなりました。
あまりにも早い死に、「家康の最初の正室で非業の最期を遂げた瀬名姫(築山殿/演:有村架純さん)の侍女によって暗殺された」との説も語られていますが、通説では、心労や疲れが重なったためと伝えられています。

於愛の方は、強度の近眼であったため、特に目の不自由な女性を気にかけ、食事や衣服などを施すなど生活を保護していたと言われています。そのため、死去した後は、大勢の目の不自由な女性たちが毎日寺院を訪れ、仏の加護があるよう願ったという逸話も残っています。

於愛の方のお墓、宝台院

宝台院(ほうだいいん)は、静岡県静岡市にある浄土宗の寺院で、永正4年(1507年)に金米山龍泉寺として開かれました。江戸幕府最後の将軍である徳川慶喜(よしのぶ)が、江戸城の開城後、新政府に従う意思を示すために謹慎生活を送ったことでも知られています。

於愛の方が亡くなると、最期の地である駿河国(現在の静岡県中部)にあったこの龍泉寺に葬られ、江戸幕府が開設された翌年の慶長9年(1904年)には、家康が十七回忌の法要を営んだと伝えられています。
さらに寛永5年(1628年)には、於愛の方の息子で江戸幕府2代将軍の秀忠が、大きな法要を行いました。この時、秀忠の働きかけにより、於愛の方に朝廷から「従一位」という階位が贈られ、戒名が「法名宝台院殿一品大夫人松誉貞樹大禅定尼」と改められたことから、寺名にも「宝台院」が加えられ「金米山宝台院龍泉寺」となり、「宝台院」と呼ばれるようになりました。徳川家の菩提寺となったのもこの時のようです。

境内には、「西郷局(お愛の方)之墓」として、於愛の方の供養塔が建てられています。供養塔は、宝篋印塔と五輪塔が混合した変形宝篋印塔で、五輪塔の水輪に置き換えられた塔身、五輪塔の火輪に段型や隅飾りがついた笠など、特徴的な形をしています。高さは2.7mと女性のものとしてはかなり大型で、火災や戦災による破損が見られるものの、存在感のある供養塔です。

宝篋印塔と五輪塔については、こちらの記事で詳しく解説しています。
宝篋印塔の歴史と特徴をわかりやすく解説します
五輪塔の歴史と特徴をわかりやすく解説します

忠吉が開いた、大雄山正覚寺(愛知県清須市)

正覚寺は、於愛の方と、その息子で家康の四男にあたる松平忠吉の供養等である宝篋印塔が建てられている寺院です。
関ヶ原の戦いの後にあたる慶長8年(1603年)、清洲城主となった忠吉が、亡き母の菩提を弔うために、前任地の忍(おし/現在の埼玉県行田市)にあった大雄山正覚寺を清洲(きよす/現在の清須市)に移したのが始まりとされています。
忠吉の死後、その位牌もここに安置され、家康が尾張地方の中心地を清洲から名古屋へ移した「清洲超し」の際、この寺院も名古屋に移され忠吉の菩提寺となりました。
その後この地に再建され、於愛の方(宝台院)の菩提、忠吉(性高院)の霊牌などを護る寺院として現在に至っています。

まとめ

於愛の方は、早くに父や夫を亡くすという境遇にありながらも、穏やかに献身的に家康を支えたと伝えられています。若くして亡くなった後、家康や息子たちの手で手厚く供養されていることからも、信頼の厚さや、愛され慕われていた様子が伺えます。
また、供養塔は火災や空襲による破損がありながらも現在まで大切に守られており、時代を超えて人々に伝わってきた敬愛の念を感じずにはいられません。

家族や家臣・人々に慕われ、激動の中を明るく逞しく生きた於愛の方の人生を、ぜひ現地で感じてみてはいかがでしょうか。

於愛の方と関わりのある戦国武将のお墓についても紹介していますので合わせてお読みください。
偉人のお墓が複数あるのはなぜ?〜徳川家康編
ファンなら一度はお参りしたい偉人のお墓 戦国編
『どうする家康』でも注目!瀬名姫(築山殿)の墓がある八柱神社

宝台院への交通アクセス

自動車

新東名高速道路/第二東海自動車道「藤枝岡部IC」より約25分 または「新静岡IC」より約20分
東名高速道路「静岡IC」より約15分

鉄道

JR静岡駅 より 徒歩約10分

バス

静鉄バス 藁科線「宝台院バス停」下車 徒歩約3分