お役立ちコラム お墓の色々
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【キングダム】「奇貨居くべし」呂不韋のお墓はどこにある?

今からおよそ2300年前の中国・戦国時代を舞台にした人気漫画「キングダム」。その中で、秦国の相国(首相)として圧倒的な存在感を放つ人物が、呂不韋(りょふい)です。
作中では、後に秦の始皇帝となる若き秦王・嬴政(えいせい)と激しく対立しながらも、卓越した知略と政治力で秦国を動かす巨大な権力者として描かれています。商人から相国までのし上り、一国を意のままに動かすその姿は多くの読者に強い印象を残しました。
では、史実の呂不韋とは実際どのような人物だったのでしょうか。
「史記」には嬴政との血縁説や宮廷内の権力闘争など、謎めいた記述も数多く残されています。そのため呂不韋は、名宰相と称えられるのではなく、時代を操った野心家として語られてきました。権勢を極めた呂不韋でしたが、とある反乱の責を負って失脚し、失意のうちに生涯を閉じることになります。
今回は、呂不韋のその生涯と功績、そしてお墓がどこにあるかについてご紹介いたします。
呂不韋誕生
詳しい生年は分かっていませんが、史記によると紀元前3世紀頃の韓に生まれたとされています(戦国策では衛(えい)に生まれたと記述されています)。当時の中国は、秦・趙・楚・魏・韓・燕・斉の七国が覇権を争う戦国時代の真っただ中にありました。各国では絶えず戦争が続き、人々は混乱の中で生きていました。しかし一方で、この時代は実力がものをいう世界でもありました。王侯貴族だけでなく、一般人や商人にも大きな成功の機会があったのです。
呂不韋は若い頃から商才に優れていたといわれています。各国を巡りながら物資を売買し、莫大な利益を積み上げていきました。戦争が続く時代では、武器、馬、食料などの需要が絶えません。さらに国ごとに貨幣価値や物価が異なるため、優れた商人はそれを利用して巨万の富を築くことができました。
呂不韋は単なる金儲けの上手い商人ではありませんでした。人の欲望や国家の事情、政治情勢までも見抜く鋭い観察眼を持っていたのです。
後に「史記」を著した 司馬遷 は、呂不韋を「大いに家を富ませた人物」と記しています。しかし、呂不韋自身は、莫大な財産を得てもなお満足してはいませんでした。
呂不韋の野心は、やがて国家そのものへ向けられていくことになるのです。
奇貨居くべし
呂不韋の運命を決定づけたのが、秦の王族・異人(いじん)との出会いでした。当時の異人は、秦から趙へ送られていた「人質」の一人でした。戦国時代では、同盟や休戦の証として王族を他国へ送ることがありましたが、その立場は決して安全なものではありません。当時の秦と趙は激しい対立関係にあり、関係が冷え切っている趙にいた異人の待遇は良いものではなかったとされています。異人自身も秦国内で有力な後継者ではなく、周囲から期待される存在ではありませんでした。
しかし、呂不韋だけは違いました。呂不韋は異人に会った瞬間、「この人物には大きな価値がある」と直感したのです。その際に呂不韋が口にしたと伝わるのが、「奇貨居くべし」という言葉です。
これは、「珍しい価値ある品物は、手元に置いて利益を待つべきだ」という意味の言葉です。つまり呂不韋は、異人という人物を将来莫大な利益を生む存在であると感じていたのです。呂不韋は異人に莫大な資金援助を行い、豪華な衣服や贈答品を与えます。さらに秦国内の政治状況を徹底的に分析し、異人を王位継承争いで有利にするための工作を始めました。特に大きかったのが、華陽夫人への接近です。華陽夫人は秦王の寵愛を受けていた女性でしたが、実子がいませんでした。呂不韋は大量の贈り物を送り、「異人を養子に迎えてほしい」と働きかけます。その結果、異人は後継者候補として急浮上し、やがて秦へ帰国することに成功します。
秦の相国・呂不韋
やがて異人は秦王として即位し、「荘襄王(そうじょうおう)」となります。そして、その最大の功労者であった呂不韋もまた、秦の政治中枢へと迎えられました。かつては各地を巡って商売をしていた一人の商人が、超大国・秦の丞相(じょうしょう)となったのです。
これは当時としても極めて異例の出世でした。戦国時代には商人が軽視される傾向もありました。しかし呂不韋は、圧倒的な財力と人脈、そして政治力によって、その常識を覆したのです。 政治家としても優秀だった呂不韋は、多くの学者や知識人を自らのもとへ集め、「食客」として保護します。そうした知識人たちによって編纂されたのが呂氏春秋(りょししゅんじゅう)でした。この書物は、儒家・道家・法家など当時の様々な思想をまとめた一大思想書です。戦国時代は「どの思想で国を治めるべきか」が各国で激しく議論されていた時代でもありました。呂不韋は武力だけではなく、知識や思想によっても国家を支えようとしていたのです。呂氏春秋完成後、呂不韋は「この書に一字でも付け加えたり削ったりできた者には千金を与える(一字千金)」と豪語したという逸話まで残っています。
それほどまでに、呂不韋は自らの事業と知識に強い自信を持っていたのでした。
紀元前247年、荘襄王が亡くなると、その子である嬴政(えいせい)が秦王として即位します。しかしこの時、嬴政はまだ若く、政治を主導できる年齢ではありませんでした。そのため、実際に国政を支えたのは呂不韋でした。呂不韋は丞相より更に上の最高職である「相国(しょうこく)」となり、事実上秦の最高権力者として巨大な影響力を持つことになります。
嫪毐の乱と失脚
しかし、巨大な権力は同時に大きな危険も呼び込みます。趙姫との関係を疑われることを恐れた呂不韋は、趙姫との関係を巡る噂を避けるため、嫪毐(ろうあい)を近づけたといわれています。嫪毐はやがて太后の寵愛を受け、大きな権力を持つようになり、ついには自分の国を作ってしまうほどに暴走していきました。
そして紀元前238年、嫪毐は反乱を起こします。これが「嫪毐の乱」です。反乱は嬴政によって鎮圧され、嫪毐は処刑されました。しかし問題は、その背後に呂不韋の存在があったことでした。嬴政はすでに自ら権力を掌握しようとしており、王である自分より巨大な権力をもつ呂不韋は、若き王にとって危険な存在でもあったのです。
反乱の責を問われた呂不韋は処刑こそ免れたものの、相国の地位を失い、河南の地へ左遷されます。それでもなお、多くの客人や旧臣たちは呂不韋のもとへ集まり続けました。それを見た嬴政は、「再び勢力を持つのではないか」と警戒を強め、蜀に居を移すように命令書を送ります。素直に命令に従った呂不韋でしたが、蜀へ向かう道中で自らの未来に絶望し、毒を仰いで命を絶ったと伝えられています。
呂不韋ほどの才覚を持つ人物が、失脚後に再起を図ることなく自死を選んだ理由は、今なお大きな謎として残されています。その背景には、権力を失った絶望だけでなく、秦王・嬴政との間にあった特別な関係も影を落としていたのかもしれません。後世に語られる「嬴政は呂不韋の実子だった」という説が事実であったなら、自らが育て、王へと押し上げた存在によって遠ざけられたことは、呂不韋にとって耐えがたいものだったのではないでしょうか。
呂不韋のお墓はどこにある?
呂不韋の墓は、失意のうちに自害した地とされる中国河南省洛陽市の東方にある寿陽山鎮・大荘頭村周辺に残されています。洛陽市中心部から東へおよそ20キロほどの場所で、呂不韋の墓と伝わる大きな塚が現在も残されています。「史記集解(しきしっかい)」などの古記録には、呂不韋の墓は洛陽北方にあると記されており、古くから北芒山一帯が墓所伝承の地として認識されていたことがうかがえます。
伝承によれば、呂不韋の葬儀には多くの参列者が集まったものの、埋葬は北芒山で急ぎ行われたとされています。さらに、その急ごしらえの葬送でさえ、呂不韋の生存を疑う秦王・嬴政(後の始皇帝)の命によって調査されたとも伝わっています。
これは、呂不韋の才覚や求心力がいかに大きかったかを示しており、嬴政含め多くの人々にとってその自害の選択が意外なものであったことに他なりません。
【呂不韋墓】中国河南省洛陽市偃師区首陽山鎮大荘頭村付近
まとめ
呂不韋は、戦国時代という激動の時代を武力ではなく卓越した才覚によって駆け上がった人物でした。単なる一商人から成り上がり、人を見抜く力によって王を支え、政治を動かし、後の秦による天下統一の土台を築き上げたその功績は極めて大きなものがあります。
しかし同時に、巨大な権力は多くの疑念や敵意を呼び込みました。権勢の頂点から失脚し、失意のうちに世を去った呂不韋の人生は、戦国時代の栄華と危うさを象徴しているようにも見えます。それでも、呂不韋の先見性と行動力は、二千年以上を経た現在でも強い印象を残し続けています。
「奇貨居くべし」という言葉が今なお語り継がれているのは、呂不韋が単に金儲けに長けた商人だったからではなく、先見の明と人脈、政治的手腕すべてがそろった傑物だったからではないでしょうか。
呂不韋の墓前に立てば、一人の一般人が己の才覚一つで国家を動かし、そして歴史をも動かそうとした壮大な乱世の物語を感じることができるかもしれません。
お墓は、亡き人を悼む場であると同時に、その人が生きた歳月や想い、家族とのつながりを静かに伝える場所です。墓前に立つことは、物語に心を寄せ、記憶を分かち合う時間でもあります。歴史上の人物の墓を訪ねれば、偉人もまた一人の人間であったと実感し、「お墓の意味」をあらためて見つめ直すきっかけとなるのではないでしょうか。その気づきは、自身の家族のお墓について考える機会にもつながります。
お墓の継承や建て替え、墓じまいなどに迷った際は、石材店へ相談することも一つの方法です。
お付き合いのある石材店が特にない場合は、以下の記事を参考に、ご自身に合った石材店をお探しになってみてはいかがでしょうか。
マナーに十分注意した上で、いろいろなお墓に参ってみてはいかがでしょう。
呂不韋の実子だったという説が残る秦王・嬴政や、秦の中華統一を支えた名将・王翦(おうせん)、そして最後まで秦に抗った趙の名将・李牧(りぼく)に関する記事もあります。あわせてお読みください。