お役立ちコラム お墓の色々
お役立ちコラム お墓の色々
- 供養をきわめる -
【豊臣兄弟】名軍師・黒田官兵衛のお墓はどこにある?

映画「黒牢城」や、大河ドラマ「豊臣兄弟」などで注目を集める黒田官兵衛(くろだ かんべえ)は、織田信長に仕えたのち、豊臣秀吉の側近として天下統一を支え、その卓越した知略から後世では『軍師官兵衛』として広く知られるようになりました。
「豊臣兄弟」では、主人公・豊臣秀長とその兄・秀吉を支える重要人物の一人として描かれています。官兵衛は中国攻めや九州平定などで軍略の才を遺憾なく発揮し、秀吉の勢力拡大を支えました。その活躍は、後の豊臣政権の基盤づくりにも大きな影響を与えたとされています。
優れた戦略家として知られる官兵衛。しかし、その人生は決して順風満帆なものではありませんでした。有岡城での長い幽閉により裏切りを疑われ、嫡男が処刑されかけるという過酷な試練を乗り越え、やがて秀吉の天下統一を支える名軍師として活躍しました。晩年には九州六十万石を領する大名へと成長し、「戦国最強の軍師」「今世の張良」とも称されています。
そんな官兵衛はどのような人生を歩み、最期はどこへ眠ったのでしょうか。今回は、黒田官兵衛の生涯と、そのお墓についてご紹介いたします。
播磨に生まれた才人
官兵衛は天文15年(1546年)、播磨国姫路(現在の兵庫県姫路市)に生まれました。
父は姫路城代・黒田職隆(もとたか)。黒田家は播磨の有力国衆・小寺氏に仕える家臣でしたが、代々優れた外交力と財力を持ち、主家から厚い信頼を得ていました。幼い頃の官兵衛については詳しい記録が多く残っているわけではありませんが、若い頃から聡明で判断力に優れ、文武両道の人物だったと伝えられています。
永禄7年(1564年)には父・職隆から家督を譲られ、姫路城代として黒田家を率いる立場となりました。当時の播磨は、東から勢力を伸ばす信長、西国の雄・毛利氏、そして別所氏や赤松氏などの在地勢力が入り乱れる動乱の地でした。どの勢力につくかによって家の命運が左右される状況の中、官兵衛は卓越した先見性を発揮します。
当時の主君である小寺政職は毛利方と織田方の間で揺れ動いていましたが、官兵衛は急速に勢力を拡大していた信長に将来性を見出し、小寺氏が織田方につくべきだと進言しました。そして自ら織田方配下の豊臣秀吉との交渉役を務め、小寺氏と織田方の関係構築に尽力します。
この働きによって軍略・調略を担う側近として重用されました。
有岡城での幽閉
官兵衛最大の試練となったのが、1578年(天正6年)に起こった、「黒牢城」の舞台ともなる「有岡城の戦い」です。
信長から摂津一国を任されていた重臣・荒木村重が突如として反旗を翻し、有岡城(現在の兵庫県伊丹市)へ籠城します。村重は官兵衛と以前から親交があり、互いに信頼関係を築いていました。そのため秀吉は、戦を避けるためにも官兵衛なら説得できると考え、官兵衛を有岡城へ派遣します。官兵衛は単身で城へ入り、村重に対して信長への恭順を勧めました。しかし村重はこれを拒否し、逆に官兵衛を城内に幽閉してしまいます。
有岡城の地下牢は日光もほとんど差し込まない劣悪な環境だったと伝えられています。官兵衛は狭い土牢に閉じ込められ、満足な食事も与えられないまま長期間の監禁生活を強いられました。その期間はおよそ一年にも及んだとされ、救出された際には全身が衰弱し、髪や髭は伸び放題だったといわれています。また、この時の後遺症によって足が不自由になったという説もあります。
一方、官兵衛が戻らないことに不信感を抱いた信長は、「官兵衛も村重に同調して寝返ったのではないか」と疑います。そして秀吉に官兵衛の嫡男・松寿丸(後の黒田長政)の処刑を命じたと伝えられています。
しかし、秀吉から処刑を命じられた竹中半兵衛は、官兵衛と親交が深かったこともあり、その忠誠を信じていました。半兵衛は命令に従わず、まだ子供だった松寿丸を自身の領地である菩提山城に密かに匿います。これにより松寿丸は命を救われ、後に福岡藩初代藩主となる黒田長政として成長することになります。
その後、有岡城が落城すると官兵衛も救出されました。長期の監禁によって著しく衰弱したその姿を見て、秀吉らは官兵衛が村重に同調したのではなく本当に幽閉されていたことを知ったと言われています。
そして一同が、官兵衛の無実を信じ、半兵衛が密かに嫡男・松寿丸を保護していたという「温かい裏切り」を知った頃には、半兵衛はすでにこの世を去っていました。官兵衛は直接礼を伝えることは叶いませんでしたが、その恩義を生涯忘れなかったと伝えられています。
秀吉を支えた軍師
長期間の幽閉によって心身ともに大きな傷を負いながらも、官兵衛の知略は少しも衰えていませんでした。むしろ、この苦難を乗り越えたことで、秀吉からの信頼はさらに厚いものになったといわれています。
この頃秀吉は、中国地方で毛利氏との戦いを続けていました。有岡城から生還し、秀吉のもとに合流した官兵衛は、三木城攻めや鳥取城攻め、備中高松城攻めなどでは優れた軍略家として才能を発揮しました。特に備中高松城攻めでは、城の周囲に堤防を築いて水攻めにするという大胆な作戦が実行されました。この作戦の発案者については諸説ありますが、官兵衛の進言によるものとする説が有力です。
そして1582年(天正10年)、本能寺の変が起こり、信長は死んでしまいます。
この報せを受けた官兵衛は、毛利氏との講和を急ぐべきだと秀吉へ進言します。秀吉は毛利氏との和睦を成立させると、ただちに軍を京都方面へ引き返しました。後に「中国大返し」と呼ばれる歴史的な強行軍です。官兵衛はこの時、動揺する秀吉に対し、「殿、御運が開けましたな」と語ったという逸話が残されています。真偽は定かではありませんが、信長亡き後の情勢を瞬時に見抜き、秀吉に天下人となる可能性を見出していたことを象徴する逸話として広く知られています。
その後も官兵衛は、賤ヶ岳の戦いや小牧・長久手の戦い、四国平定、さらには九州平定などで軍略を担い、秀吉の天下統一事業を支え続けました。特に九州平定では大きな功績を挙げ、豊前国中津十二万石を与えられます。さらに居城となる中津城の整備にも取り組み、後の黒田家発展の基礎を築きました。
しかし、あまりにも優秀だったためか、秀吉は官兵衛を完全には信用していなかったともいわれています。官兵衛自身も秀吉の猜疑心を理解していたとされ、表立って権力を求めることはありませんでした。
1598年(慶長3年)に秀吉が亡くなると、天下は再び大きく揺れ始めます。そして1600年(慶長5年)天下分け目の大戦「関ヶ原の戦い」では、官兵衛は隠居の身でありながら九州各地で兵を挙げました。わずかな期間で城を次々と攻略したことから、一説には官兵衛自身が天下取りを視野に入れていたともいわれています。しかし関ヶ原本戦が短期間で決着したため、その構想が実現することはありませんでした。
如水として過ごした晩年
秀吉の死後、官兵衛は正式に家督を嫡男・長政へ譲り、自らは出家して「如水円清(じょすい えんせい)」と号しました。
「如水」とは、老子の「上善は水の如し」に由来するとされ、水のように柔軟でありながら、あらゆるものを潤す存在でありたいという思いが込められていたともいわれています。しかし隠居したとはいえ、官兵衛の影響力は決して小さくありませんでした。長政を補佐しながら黒田家の経営に助言を与え、徳川家康との関係維持にも尽力します。
また、官兵衛は武将であると同時に文化人でもありました。茶の湯をはじめとする文化にも深い関心を持ち、多くの武将や僧侶、文化人と交流しています。晩年は京都の伏見などで過ごしたとされ、戦国の激動を生き抜いた人物らしく、静かに余生を送りました。
そして1604年(慶長9年)、京都伏見にて死去。享年59でした。
信長、秀吉、家康という三英傑の時代を生き抜いた官兵衛は、その卓越した知略によって後世まで語り継がれる存在となったのです。
黒田官兵衛のお墓はどこにある?
黒田官兵衛は現在、福岡県福岡市博多区にある崇福寺の墓所にて静かに眠っています。
崇福寺は福岡藩主となった黒田家の菩提寺で、境内の西北には黒田家歴代の墓所が設けられています。墓所には藩祖・黒田官兵衛(如水)をはじめ、初代藩主の黒田長政、歴代藩主やその一族、直方藩主らが眠っています。
昭和25年(1950年)には改葬工事が行われ、それまで並んでいた多数の石塔が整理され、現在は官兵衛や長政の墓塔のほか、黒田家一族の合葬碑など計12基の石塔が並んでいます。
墓碑には、聖福寺第109世で日朝・日明外交にも関わった僧・景轍玄蘇(けいてつげんそ)の撰文が刻まれており、建立当初の姿を今に伝える貴重な史料として知られています。
実は、官兵衛は熱心なキリシタンとしても知られ、その遺言によって一旦は福岡のキリシタン墓地に葬られましたが、その後の禁教政策によって墓は現在の崇福寺へ改葬されたという記録も残されています。
【崇福寺】福岡県福岡市博多区千代4丁目7−79
また、京都市北区にある大徳寺塔頭・龍光院にも官兵衛ゆかりの墓所が残されています。龍光院は黒田家と深い関わりを持つ寺院で、官兵衛が篤く帰依した禅宗寺院として知られています。境内には黒田家霊屋(れいおく)があり、その内部には官兵衛(如水)と妻・光姫(照福院)の五輪塔が安置されています。
この五輪塔は、慶長11年(1606年)に嫡男・黒田長政が父・官兵衛の三回忌にあわせて建立したものが始まりと伝えられています。また、霊屋は龍光院創建時の慶長13年(1608年)頃に建てられたとみられ、現在まで大切に守り伝えられてきました。
建物は禅宗様式を取り入れた小規模な方三間堂ですが、組物や木鼻、実肘木などに精巧な意匠が施されています。桃山時代の霊廟建築としては現存例が少なく、建築史上も高い価値を持つ文化財として評価されています。
【大徳寺 龍光院】京都府京都市北区紫野大徳寺町14
まとめ
黒田官兵衛は、戦国最強とも称されるその知略で豊臣秀吉の天下統一を軍師として支え、黒田家を九州有数の大名へと成長させる礎を築きました。
その一方で、秀吉から警戒されるほどの才能を持ち、関ヶ原の戦いでは自ら天下取りを狙ったともいわれるなど、単なる「軍師」の一言では語り尽くせない人物でもあります。
「豊臣兄弟」において秀吉や秀長を支える知将として描かれ、「黒牢城」では有岡城幽閉のエピソードが注目されるなど、その生涯は今なお多くの人々を魅了しています。
群雄割拠の戦乱の世を卓越した知略と先見性で生き抜いた官兵衛。その足跡は、現代においても色あせることなく語り継がれています。
官兵衛の墓前に立てば、信長の革新、秀吉の栄華、そして家康の治世へと続く時代の大きな転換を見届けた、一人の「大軍師」の息遣いを感じることができるかもしれません。
お墓は、亡き人を悼む場であると同時に、その人物が生きた時代や想いを現代へ伝える場所でもあります。
歴史上の人物の墓を訪ねることは、その人の人生に触れ、自分自身の生き方や家族とのつながりを見つめ直すきっかけになるかもしれません。
お墓の継承や建て替え、墓じまいなどに迷った際は、石材店へ相談することも一つの方法です。
お付き合いのある石材店が特にない場合は、以下の記事を参考に、ご自身に合った石材店を探してみてはいかがでしょうか。
マナーに十分注意した上で、いろいろなお墓に参ってみてはいかがでしょう。
黒田官兵衛が仕えた織田信長と豊臣秀吉、有岡城で深く関わった荒木村重と竹中半兵衛に関する記事もあります。あわせてお読みください。