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『どうする家康』でも注目!徳川軍を2度も退けた真田昌幸のお墓

墓地・墓石コラム

『どうする家康』でも注目!徳川軍を2度も退けた真田昌幸のお墓

2023年のNHK大河ドラマ「どうする家康」では、松本潤さん演じる徳川家康が、駿河国・遠江国(現在の静岡県)の守護大名・今川義元(演:野村萬斎さん)のもとで人質としての幼少時代を過ごし、弱小国と言われた三河国(現在の愛知県東半部)の主となったのち、天下統一を成し遂げていくまでの波乱の生涯が描かれます。

真田昌幸は、武田信玄のもとで武功をあげ、徳川の大軍を2度にわたり撃退した名将として知られています。知略・戦術に長け、小国でありながら大国の大名たちを翻弄し、真田家の名を世に知らしめた人物です。ドラマでは佐藤浩市さんが演じられており、底知れない力を感じさせる様子が話題を呼んでいます。

真田昌幸の生涯

武田信玄・勝頼に仕える

真田昌幸は、天文16年(1547年)に武田家の家臣であった真田幸綱(幸隆)の三男として信濃国(現在の長野県)に生まれ、7歳で武田家への人質として甲斐国(現在の山梨県)へ移ると、武田信玄(演:阿部寛さん)・勝頼(演:眞栄田郷敦さん)親子に仕えました。

信玄に学問や戦術を学んだ昌幸は、15歳で初陣に挑み、その才能が認められ、足軽大将として騎馬15騎・足軽10人を率いたと伝えられています。その後も数々の武功をあげ、武田家に代々仕える側近たちと並んで、信玄の側近である「奥近習(おくきんじゅう)六人衆」に数えられるなど、武田家重臣の地位を確立していきました。

徳川家康との衝突

天正2年(1574年)に父が死去。更にその翌年に2人の兄も戦死してしまったため、昌幸は真田家を継ぐこととなります。
天正10年(1582年)3月、織田・徳川連合軍の武田攻めにより武田家が滅亡すると、織田信長(演:岡田准一さん)に仕えました。しかし同年6月、本能寺の変で織田信長も死去。支配体制が固まっていなかった旧武田領をめぐり、「天正壬午の乱」と呼ばれる大規模な争乱が起こります。昌幸はこの間に、旧武田家臣たちの取り込みを画策。更に、わずか3ヶ月の間に上杉、北条、徳川と従う先を次々と変え、真田家と領地の存続のための策を講じました。

天正10年(1582年)9月には家康の家臣となっていた昌幸ですが、天正13年(1585年)、家康との間にあった領地問題が影響し、家康に上田城を攻められることとなります。この戦は「第一次上田合戦」とも呼ばれ、徳川軍約7000に対し、真田側は2000に足らないほどの兵力だったにも関わらず、徳川側に大きな損害を与えて退けたことで、昌幸の名が広く知られるようになりました。

このように、名だたる大国を手玉に取りながら名を上げていく昌幸について、豊臣秀吉(演:ムロツヨシさん)はその手腕に感心し、「表裏比興(ひょうり ひきょう)の者」、つまり、賢く立ち回るくわせ者と評したとも伝えられています。

真田家の運命を決めた関ヶ原の戦い

天正13年(1585年)昌幸は秀吉に従属することを決め、家康と和睦。その後、慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると、2年後の慶長5年(1600年)には石田三成と家康が政権をめぐって対立し、「関ヶ原の戦い」が勃発しました。

多くの武将がどちらに味方するか思案する中、昌幸は、どちらが勝っても真田家が存続できるよう、昌幸と次男・信繁(幸村/演:日向亘さん)は石田方である西軍に、本多忠勝の娘と結婚していた嫡男の信幸(演:吉村界人さん)は徳川方である東軍につくという、家族でありながら敵味方に分かれる決断をしました。この、家の存続をかけた苦渋の決断は、「犬伏(いぬぶし)の別れ」と呼ばれ、語り継がれています。

その後、関ヶ原へ赴く途中の家康の息子・徳川秀忠(演:森崎ウィンさん)が、約38,000という兵力で上田城を攻め、昌幸側は2,000の兵力で応戦。これは「第二次上田城合戦」と呼ばれ、第一次上田城合戦以上に圧倒的な差がありながら、知略を巡らせた籠城戦により秀忠軍を撃退。苦戦を強いられた秀忠が、関ヶ原の合戦に遅参することになったとも伝えられています。

昌幸の最期

関ヶ原の戦いは徳川家が勝利し、昌幸と信繁は窮地に立たされましたが、本多忠勝の口添えにより死罪を免れ、高野山への蟄居(ちっきょ/外に出られない謹慎)を命じられました。
一方、嫡男・信之は武功が認められ、家督と、昌幸が納めていた上田の地を引き継ぐこととなりました。昌幸は地位を失いましたが、その知略により真田家の存続は果たされたのです。

その後、昌幸は高野山から九度山(どちらも和歌山県北部)に移り、10年余りの蟄居生活ののち、慶長16年(1611年)に病死したと伝えられています。

真田昌幸のお墓がある長谷寺と長国寺

長谷寺(長野県上田市真田町)

真田山長谷寺(しんでんざん ちょうこくじ)は、天文16年(1547)年、昌幸の父・真田幸綱(幸隆)が、一族の菩提寺として松尾城内に健立した、曹洞宗の寺院です。昌幸も父の菩提のために寺の増築改修を行い、諸堂を完備したと伝えられています。
第二次上田合戦の際、退却する徳川勢に火を放たれ焼失。再建された後も災害や火災に遭い、現在の建物は昭和53年に再建されたようです。

昌幸の死後、遺体は火葬され、遺骨は故郷である上田に送られて長谷寺に納骨されたとされています。

本堂裏手の庭園を過ぎて階段を登ると、真田公墓所があり、真田幸綱(幸隆)夫妻と、真田昌幸の供養等である、宝篋印塔(ほうきょういんとう)が並んでいます。中央が真田幸綱、向かって右が昌幸のお墓です。
昌幸の宝篋印塔は、塔身に蓮華の花や文字が、上に細長く立つ九輪の下部には梵字が刻まれているなど、細かな装飾がされています。

長國寺(長国寺)(長野県長野市松代町)

長野市松代町にある長國寺(ちょうこくじ)も真田家の菩提寺として知られています。昌幸の嫡男・真田信之が関ヶ原の戦いの後に上田藩主となり、その後松代へ移った際に上田の長谷寺もともに移転させる形で建てられました。上田の長谷寺と混同しないよう、「ちょうこくじ」という読みはそのままで一文字を変え、「長國寺」としました。

境内、松代藩祖となった真田信之の御霊屋の後方に、真田家歴代の墓所があります。信之から十代にわたる真田家歴代当主や松代藩家臣の墓など、宝篋印塔21基をはじめとした供養碑や献灯が並んでおり、その中に、父の真田幸隆(幸綱)・兄の信綱・昌幸3人の供養塔があります。

一般的な和型石碑に蓮台と笠が加えられた大名型の墓で、塔身(竿石)には3人それぞれの戒名が、笠の正面には真田家の家紋である六文銭が刻まれています。

宝篋印塔については、こちらの記事で詳しく解説しています。
宝篋印塔の歴史と特徴をわかりやすく解説します

その他の昌幸の墓所・ゆかりの地

真田庵(和歌山県伊都郡九度山町)

真田庵は、正式名を善名称院(ぜんみょうしょういん)という高野山真言宗の寺院です。田昌幸・信繁父子が蟄居していた九度山の屋敷跡と伝わる地に建てられ、境内には、昌幸の霊を大権現として祀る「真田地主大権現」、真田昌幸墓所と伝わる宝篋印塔があります。

真田神社(長野県上田市)

真田神社は、上田城本丸跡に鎮座し、真田氏、仙石氏、松平氏という歴代の上田城主を御祭神としている神社です。上田藩旧藩主の松平氏への報恩と、上田城にて徳川の大軍を二度にわたり退けた真田氏の活躍で名高い上田城を後世に伝えたいとの願いから、創建されたと伝えられています。

まとめ

最後は幽閉同然の生活となったにも関わらず、昌幸の名は、その功績と共に現代まで語り継がれています。墓所や供養塔も大切に守られており、激動の時代の中を、小国の当主でありながら己の知略で生き残り、家を守り抜いた姿が人々の心を打つのかもしれません。

名のある大名たちと渡り合い、武田家家臣、真田家当主としての誇りを捨てず、不屈の精神で闘い続けた昌幸。ぜひ現地に赴き、その息遣いを感じてみてはいかがでしょうか。

真田昌幸と関わりのある戦国武将のお墓についても紹介していますので、合わせてお読みください。
偉人のお墓が複数あるのはなぜ?〜徳川家康編
偉人のお墓が複数あるのはなぜ?〜武田信玄編
偉人のお墓が複数あるのはなぜ?〜真田幸村(信繁)編
『どうする家康』『大奥』でも注目!武田信玄と柳沢吉保の墓がある恵林寺

長谷寺への交通アクセス

自動車

上信越自動車道「上田菅平IC」より約20分/「東御湯の丸IC」より約30分(県道4号線経由)

バス

上田バス 菅平高原行、真田行、渋沢行、「中真田バス停」「真田バス停」下車 徒歩約20分

長國寺への交通アクセス

自動車

上信越自動車道「長野IC」から約8分

バス

JR長野駅から
アルピコ交通バス 松代高校行きで約31分 「木町バス停」下車 徒歩6分