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【キングダム】王翦の息子、王賁のお墓はどこにある?

墓地・墓石コラム

実写映画第5作も公開され、ますます注目を集める『キングダム』。

若き将の一人として登場する王賁(おうほん)は、主人公・信(李信)の同世代のライバルの一人として高い人気を誇る武将です。冷静沈着で誇り高い性格、そして圧倒的な武勇で数々の戦場を駆け抜ける姿が印象に残っている方も多いのではないでしょうか?

王賁は漫画のオリジナルキャラクターではなく、中国の歴史書『史記』にもその名が記された実在の人物です。名将・王翦(おうせん)の息子として生まれ、秦の天下統一を支えた将軍の一人として、楚、魏、燕、代、斉への攻略で大きな功績を残しました。

一方で、王賁の生涯については武勲以外の詳しい記録があまり残されておらず、晩年については特に多くの謎に包まれています。しかし、中国・陝西省には現在も王賁の墓と伝わる墓所が残されており、歴史遺産として大切に保存されています。

今回は、王賁の来歴や活躍、そして現代まで受け継がれているお墓についてご紹介します。

名将・王翦の息子として生まれる

王賁は、中国戦国時代末期の秦で活躍した武将です。

生年は明らかになっていませんが、秦を代表する知将・王翦の息子として生まれました。

父・王翦は、秦王・嬴政(後の始皇帝)のもとで楚を滅ぼした名将として知られています。慎重な用兵と、生涯無敗と称されるほど確実に勝利を積み重ねる戦いぶりから、古代中国でも戦国四大将軍の一角に数えられるほど屈指の名将として高く評価されています。

名将を父に持つ王賁も、幼い頃から兵法や武芸を学び、将来、国を背負って立つ将軍となるべく英才教育を施されたと考えられています。

しかし、幼少期や青年時代の記録はほとんど残されておらず、どのような修業を積み、どのように成長したのかはわかっていません。

『史記』に王賁の名が登場するのは、すでに将軍として活躍するようになってからです。そのため、歴史に姿を現した時には、すでに秦軍を率いる優れた指揮官となっていました。

また、王賁の子・王離(おうり)もまた、父亡きあと秦の将軍として活躍しており、王氏一族は三代にわたって秦を支えた名門武家として知られています。

六国統一を支えた名将

王賁は、秦が天下統一を目指す中で数々の重要な戦いを任されました。

当時、中国では秦・楚・斉・燕・韓・趙・魏の七国が互いに争う戦国時代が続いていました。秦王・嬴政は中華統一を目指し、各国への侵攻を本格化させます。その中で王賁は、父・王翦とともに各地を転戦し、自らも将軍として軍を率いるようになります。

王賁は個人の武勇だけではなく、父譲りの知略にも優れ、地形や状況を生かした戦いを得意としていたと考えられています。

始皇21年(紀元前226年)、秦王・嬴政の命により、王賁は楚の国境地帯へ侵攻しました。この戦いで王賁は楚軍を大いに破り、楚の城を十数箇所も奪取するという大戦果を挙げています。その戦果もあってか、王賁の実力は始皇帝からも高く評価され、秦の命運を左右する重要な戦いを次々と任されるようになりました。

魏を水攻めで攻略

紀元前225年、王賁は魏攻略の総大将を任されます。

魏の都・大梁(現在の中国河南省開封市)は、高い城壁と堅牢な防御施設に守られた難攻不落の城でした。正面から攻めても多くの犠牲が出ると判断した王賁は、大胆な作戦を実行します。

黄河と鴻溝(こうこう)の水を城内へ引き込み、大梁を水没させる「水攻め」です。この作戦は数か月に及び、やがて城壁は崩壊しました。魏王・假(か)は降伏し、魏は滅亡します。

この勝利は秦の天下統一を大きく前進させただけでなく、王賁の名を広く天下に知らしめる戦いとなりました。

燕・代を滅ぼす

魏を滅ぼした王賁は、続いて燕攻略にあたります。

当時の燕は、荊軻(けいか)を刺客として送り込み秦王暗殺を狙うという起死回生の策が失敗して以降も秦への抵抗を続けていました。しかし、王賁は軍を率いて遼東まで進軍し、燕王・喜を捕らえることに成功します。さらに、趙滅亡後に建国された亡命政権「代」にも攻め込み、代王・嘉を捕虜としました。

こうして燕と代は秦へ併合され、秦は中華統一へ向けてさらに勢力を拡大していきます。

最後の敵・斉を降伏させる

紀元前221年、秦に残された最後の敵国が斉でした。

王賁は李信、蒙恬らとともに燕方面から軍を進め、斉軍の守備が薄い経路を選んで一気に首都・臨淄(りんし)へ迫ります。突然の進軍に斉は十分な抵抗ができず、斉王・建は降伏しました。

これにより韓・趙(代を含む)・魏・楚・燕・斉の六国はすべて秦によって統一され、中国史上初となる統一国家が誕生します。

父・王翦が楚を滅ぼし、息子・王賁が単独で魏を、李信、蒙恬とともに燕・代・斉を攻略したことから、王翦・王賁親子は秦の天下統一を支えた最大の功労者として歴史に名を刻みました。

天下統一後の王賁

天下統一後、王賁はその功績が認められ、「通武侯(つうぶこう)」に封じられたと『史記』に記されています。

また、始皇帝が全国を巡る東方巡幸にも同行したことが伝えられており、統一後も始皇帝から厚い信頼を寄せられていたことがうかがえます。

一方で、その後の王賁について詳しい記録はほとんど残されていません。いつ亡くなったのか、どのような晩年を過ごしたのかは現在も明らかになっておらず、晩年の詳細は、そのほとんどが謎に包まれています。

王賁のお墓はどこにある?

王賁のお墓は、中国・陝西省渭南市富平県美原鎮(びげんちん)の北側にあると伝えられています。

現在も古墳状の墓が残されており、中国の地図サービス「百度地図」にも「王賁墓」として登録されています。なお、この墓は伝承に基づくもので、王賁の墓であることを裏付ける史料は確認されていません。現地には「王賁墓」と刻まれた石碑も建てられています。

このお墓は父・王翦の墓から車で15分ほどの場所に位置しており、親子の墓所が近接していることでも知られています。また、子・王離の墓も富平県内にあると伝えられており、王氏一族ゆかりの地として現在も大切に受け継がれています。

2003年には陝西省の重点文物保護単位に指定され、歴史的価値の高い文化遺産として保護されるようになりました。

【王賁墓】中国・陝西省渭南市富平県美原鎮

まとめ

王賁は、父・王翦や李信、蒙恬とともに秦の天下統一を支えた名将の一人です。

楚との戦いをはじめ、魏への水攻め、燕・代・斉の攻略で数々の戦功を挙げ、中国史上初の統一国家の誕生に大きく貢献しました。

キングダムでは主人公・信のライバルとして描かれていますが、史実でも始皇帝から厚い信頼を受け、李信や蒙恬らとともに各地で秦軍を率いて中華統一に大きく貢献した武将の一人であり、その功績は、二千年以上が経った現在でも高く評価されています。

王賁の墓を訪れれば、秦が天下統一へと突き進んだ激動の時代や、その最前線で戦い抜いた名将の息吹を感じることができるかもしれません。

お墓は、亡き人を悼む場であると同時に、その人物が生きた時代や想いを現代へ伝える場所でもあります。歴史上の人物の墓を訪ねることは、その人の人生に触れ、自分自身の生き方や家族とのつながりを見つめ直すきっかけになるかもしれません。

お墓の継承や建て替え、墓じまいなどに迷った際は、石材店へ相談することも一つの方法です。

お付き合いのある石材店が特にない場合は、以下の記事を参考に、ご自身に合った石材店を探してみてはいかがでしょうか。

石材店はどう選ぶ? 注目すべき5つのポイント

マナーに十分注意した上で、いろいろなお墓に参ってみてはいかがでしょう。

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