お役立ちコラム お墓の色々
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綾瀬はるかさんの熱演でも注目!帰蝶の遺髪を埋葬した濃姫遺髪塚
2023年に公開された映画「THE LEGEND & BUTTERFLY(レジェンド・アンド・バタフライ)」では、木村拓哉さんが織田信長を、綾瀬はるかさんが信長の正室・ 濃姫(帰蝶)を演じ、2人が政略結婚により夫婦となった天文18年(1549年)から、天正10年(1582年)に起こった本能寺の変までの33年間が、この映画独自の新たな視点で描かれています。
綾瀬はるかさんが演じた濃姫は、尊大な態度を取る信長に対し、あわよくば暗殺をしようと心に秘めた男勝りの強い女性として登場します。夫・信長が天下統一へ向かうにつれ、徐々にその心が変わっていく様子が本作の見どころの1つです。
では、歴史の資料に残る濃姫の姿は、一体どのようなものであったのでしょうか。
濃姫の詳細
濃姫の生い立ち
濃姫は、「美濃(現在の岐阜県)の蝮(まむし)」と呼ばれ下剋上により戦国大名となった斎藤道三の娘です。美濃国の史書である『美濃国諸旧記』によると、濃姫は天文4年(1535年)の生まれとされ、名は「帰蝶」と記されています。また「武功夜話」という史料では「胡蝶」という記述もあります。
“濃姫”という呼び方は、“美濃からきた姫”という意味からきているとされており、本名ではありません。
信長は3人目の夫
信長の正室として有名な濃姫ですが、最新の研究では信長は3人目の夫であると言われています。
その説の裏付けとされている資料の1つが、岐阜県史の編纂の過程で発見された「六角承禎条書写(ろっかくしょうていじょうしょうつし)」という書状です。そこには「斎藤同名に成りあがり、それにくわえて土岐次郎殿を聟(婿)に取り、次郎殿の早世の後、舎弟の八郎殿へ申し合わせ・・・」という記述があります。
それによると1人目の夫は、美濃の守護・土岐頼芸(よりのり)の甥である土岐頼純です。天文15年(1546年)、当時敵対していた尾張(現在の愛知県)の織田家や越前(現在の福井県)の朝倉家との和睦を図るための政略結婚により、当時数えで12歳の濃姫は頼純の正室となったという説があります。
そして、2人目の夫は、頼純の弟である土岐頼香(よりたか)です。
頼純→頼香という順序ではなく、頼香→頼純という順序であったという説もありますが、頼純・頼香の死には、斎藤道三が関わっているという説があり、濃姫は幼くして夫の命を二度も実の父に奪われたと考えられています。
信長の正室になった後の記録は・・・
天文18年2月24日(1549年3月23日)、濃姫は信長に嫁ぎます。齋藤家と織田家による政略結婚です。『美濃国諸旧記』には、この結婚に関する記述が残っていますが、それ以降、濃姫に関する記録は途絶えます。また、斎藤家の菩提寺である常在寺(岐阜市)には、時期不明ながらも父・道三の肖像を寄進したと伝わっていますが、濃姫の没年などは不明です。
側室が生んだ奇妙丸(のちの織田信忠)を養子としていることから、濃姫は子宝に恵まれなかったことが通説とされていますが、仮に女児が生まれていたとしてもその生母は不明の場合が多く、本当に子がいなかったかどうかは確かではありません。
強き女子(おなご)、濃姫
濃姫に関する歴史的資料は少ないながらも、その人柄をイメージさせる逸話がいくつか残っています。
代表的なものは、織田家輿入れの際の、短刀のエピソードです。当時の信長は「大うつけ」と噂されており、道三は「もしその噂が本当であれば、信長を亡き者にしろ」と濃姫に短刀を渡したと伝わっています。
それを受けて濃姫は「この短刀で父上を刺すことになるかもしれません」と答えたそうで、真偽は定かではありませんが、この逸話が今日までに伝わる“強い濃姫像”を作っているといえるでしょう。
また、「本能寺の変」を画題とした浮世絵「本能寺焼討之図(ほんのうじやきうちのず)」には、薙刀(なぎなた)を持って勇ましく戦う女性の姿があり、これが濃姫なのではないかと考えられています。
これが事実であれば、濃姫は信長と一緒に本能寺で亡くなったとも考えられますが、一方で、信長の次男・織田信雄が天正15年(1587年)頃の家族や家臣団の構成をまとめた『織田信雄分限帳』には、濃姫を指すと思われる「あつち殿(安土殿)」という女性が登場します。600貫文の知行を与えられた地位の高い人物との記述があり、これが事実であれば本能寺の変で亡くなることなく、生存していたことになります。
濃姫の墓と伝わる場所
明確な没年がわからず謎多き人物である濃姫ですが、その遺髪を埋葬したと伝わる場所があります。岐阜県岐阜市不動町の西野不動尊前にある「濃姫遺髪塚」です。
濃姫遺髪塚
言い伝えによると、濃姫は本能寺の変で信長と共に亡くなり、その遺髪を信長の家臣が美濃へと持ち帰り埋めたとされています。
昭和20年(1945年)の空襲により墓石が焼失しますが、昭和50年(1975年)にはお墓の碑文が見つかり、その翌年の昭和51年(1976年)に、有志の方々で再建されました。碑文には寛文5年(1665年)乙巳と記されており、江戸時代のものであることがわかります。
石碑には、日蓮宗の「髭題目(ひげだいもく)」と呼ばれる独特のひげ文字で「南無妙法蓮華経」と彫られており、斎藤家が日蓮宗と関わりが強かったことをうかがわせます。
なお、「髭題目」など、日蓮宗の葬儀やお墓についてまとめた記事がございますので、あわせてお読みください。
◆宗教による葬儀とお墓の違い・日蓮宗編
大徳寺総見院
「濃姫遺髪塚」の他に、大徳寺総見院(京都府)には濃姫を供養する五輪塔(ごりんとう)があります。総見院は豊臣秀吉が信長の一周忌に菩提を弔う為に創建したとされ、信長をはじめとする織田家一族7基の五輪塔が並んでいます。
五輪塔は、主に供養塔やお墓として使われる塔の一種です。密教(7世紀後半にインドで興隆した一宗派)の教理にもとづいて作られた形で、上から、空・風・火・水・地という五大と呼ばれる宇宙を構成する5つの元素を表現しています。五大で形作られた五輪塔で供養することにより、故人は宇宙(五大)に還元され、極楽浄土に往生するとされています。
なお、五輪塔やその他のデザインについての解説記事がございますので、合わせてお読みください。
◆五輪塔の歴史と特徴をわかりやすく解説します
◆お墓のデザインはどんなものがある?
濃姫は謎多き人物ではありますが・・・
濃姫に関しては現存する資料が乏しく、その生涯には諸説があります。
ただ、齋藤家の歴史や夫・織田信長の足跡から、濃姫の姿をイメージしてみるのも面白いのではないでしょうか。
ぜひ、その在りし日を思い浮かべながら当地を訪れてみてください。
信長の墓についてまとめた記事もございます。
合わせてお読みください。
◆偉人のお墓が複数あるのはなぜ?〜織田信長編
◆『どうする家康』でも注目!本能寺の変で討たれた信長の墓について
濃姫遺髪塚への交通アクセス
鉄道&バス
・JR岐阜駅から岐阜バス「K18 旦の島行き」乗車約9分、「市民会館・裁判所前」下車徒歩7分
・JR岐阜駅から岐阜バス「右まわり JR岐阜行き(忠節→岐阜市役所→長良)」乗車約8分、「市民会館・裁判所前」下車徒歩7分
大徳寺総見院への交通アクセス
※通常非公開で、春と秋に特別公開があります。事前にご確認の上お出かけくださいませ。
鉄道&バス
京都市営地下鉄烏丸線・北大路駅から市営バスに乗車約5分、「大徳寺前」下車徒歩約7分