お役立ちコラム お墓の色々

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『どうする家康』関ヶ原の戦いにも同行した側室、お梶の方(お勝の方)のお墓

墓地・墓石コラム

『どうする家康』関ヶ原の戦いにも同行した側室、お梶の方(お勝の方)のお墓

2023年のNHK大河ドラマ「どうする家康」では、松本潤さん演じる徳川家康が、駿河国・遠江国(現在の静岡県)の守護大名・今川義元(演:野村萬斎さん)のもとで人質としての幼少時代を過ごし、弱小国と言われた三河国(現在の愛知県東半部)の主となったのち、天下統一を成し遂げていくまでの波乱の生涯が描かれます。

家康は、20人もの側室を持ったと言われています。その中で、才知に長け戦場にも同行した側室として阿茶局(あちゃのつぼね/演:松本若菜さん)は有名ですが、もう1人、同様に騎馬にて戦場にも同行していた側室として、お梶の方(お勝の方)が知られています。今回は、その聡明さから家康より絶大な信頼を寄せられ、関ヶ原の戦いにも同行したとされるお梶の方と、そのお墓について紹介していきます。

お梶の方の生涯

生まれ

お梶の方は、天正6年(1578年)、江戸城を築城したことで知られる太田道灌(どうかん)の直系の子孫で江戸城城代であった太田康資(やすすけ)と、法性院(ほっしょういん/北条氏康の養女)の間に生まれました。生まれについては諸説あり、江戸重通(しげみつ)の娘として生まれ、康資の養女になったとも言われています。
幼名は「お八(おはち)」と言い、家康の命でお梶(おかじ)お勝(おかち)と改めました。

家康の側室となる

お梶の方は、13歳で家康に仕えるようになったとされていますが、年齢が若いこともあり、最初から側室であったかどうかは、はっきりと分かっていません。

慶長12年(1607年)、30歳で家康の最後の子とされる五女・市姫を出産。しかし、市姫は4歳で早くに亡くなってしまいます。
子を亡くしたお梶の方を不憫に思った家康は、側室・お万の方(蔭山殿・養珠院)が産んだ鶴千代(後の徳川頼房(よりふさ)/常陸水戸藩の初代藩主であり、「水戸黄門」で知られる徳川光圀の父)をはじめとした、自らの子や孫らの養育を任せました。

お梶の方の活躍

お梶の方は、戦に同行した側室の1人としても知られ、関ヶ原の戦いや大坂の陣にも、男装して騎馬にて同行したと伝えられています。関ヶ原で勝利した際には、戦に連れて行くと勝利するとして、家康が「お勝」と改名させたという話も残っています。

お梶の方の聡明さを伝えるこんな逸話もあります。
家康が家臣たちに、「この世で一番おいしいもの、まずいもの」を尋ねた時、お梶の方は、どちらも「塩」であると答えました。「どのような料理も、塩がないと美味しく味を整えることができず、逆にどんなに美味しい料理でも、塩を入れ過ぎてしまうと食べられない」というお梶の方の答えに、家康は感心し、「男として生まれていたら、名将となって大軍を率いていただろう」と賞賛したと言われています。

聡明なだけなく倹約家であったことも、家康から絶大な信頼得ることにつながり、駿府城の家政や金蔵の鍵まで任されていました。また、徳川家光の乳母である春日局を家康に会わせ、家光が三代将軍になるのを助けるなど、政治力も発揮していきました。

お梶の方は、その政治力で、衰退していた実家である太田家の復興にも大きく貢献しています。自身の甥にあたる太田資宗を養子とし、徳川秀忠に仕えさせたことで、資宗のみならずその子孫までが順調に出世し、明治以降も名を残していくこととなりました。

お梶の方と並んで、戦に同行し家康の信頼を得ていた側室に、重要な交渉役も努めた「阿茶局(あちゃのつぼね)」がいます。政治にも深く関わり、側室というよりは側近・家臣として重用されていた2人ですが、阿茶局は外交面で、お梶の方は側小姓(秘書)として大きな功績を残してきたと言えるでしょう。

阿茶局について紹介した記事もありますので、あせてお読みください。
『どうする家康』でも注目!戦場でも活躍した側室、阿茶局のお墓

家康の死後

元和2年(1616年)に家康が病気でこの世を去ると、出家して「英勝院」と名乗ります。

晩年も、徳川頼房の嫡男でありながら不遇な扱いを受けていた頼重が、水戸藩に帰府できるよう手助けしたり、頼房の三男で次の水戸藩主となる光圀と共に三代将軍・家光に謁見したりと、徳川家のために力を尽くしたとされています。

家光からの信頼も厚く、寛永11年(1634年)、現在の神奈川県鎌倉市にあたる相模国(さがみのくに)鎌倉扇谷(おおぎがやつ)を賜り、菩提寺となる英勝寺を建立しました。この地は、父方の先祖である太田道灌の屋敷跡であったと言われています。

寛永19年(1642年)、お梶の方は病気により、65歳でこの世を去りました。

お梶の方のお墓である英勝寺(神奈川県鎌倉市扇ガ谷)

お梶の方のお墓である英勝寺(神奈川県鎌倉市扇ガ谷)

英勝寺(えいしょうじ)は、浄土宗の寺院であり、現在、鎌倉に残る唯一の尼寺です。寛永13年(1636年)、お梶の方が建立し、自身の院号「英勝院」を寺号としました。初代水戸藩主・徳川頼房の養母であったことから、水戸徳川家に守られ、代々の住持を水戸家の姫が務めたため、「水戸御殿」「水戸の尼寺」とも呼ばれたようです。

境内には、英勝院の位牌が安置された祠堂(しどう)が、風雨から守るための鞘堂(さやどう)の中に納まる形で残されており、その裏側に、徳川光圀が建立したとされる供養塔があります。台石に、縦に長い塔身、笠、露盤、宝珠からなる笠塔婆墓で、笠の四隅に丸みのある隅飾りがあり、塔身正面には法号が刻まれています。

なお、英勝寺の仏殿・山門・鐘楼・唐門(祠堂門)・祠堂は、平成25年(2013年)、国の重要文化財に指定されています。

その他のお梶の方のお墓

養源院跡(栃木県日光市山内)

養源院(ようげんいん)は、お梶の方の部屋子を経て家康の側室となった、お六の方(後の養儼院:ようげんいん)の菩提寺として建てられた寺院です。寺の跡地に、お梶の方(英勝院)と、お六の方(養源院)の供養塔である宝篋印塔が並んで残されています。
向かって左の大きいものがお梶の方の供養塔とされ、塔身には梵字と、「寛永十九年 英勝院 壽位 八月廿三日」と、英勝院の名と没年月日が刻印されています。

宝篋印塔について詳しくはこちらの記事をお読みください。
宝篋印塔の歴史と特徴をわかりやすく解説します

妙法華寺(静岡県三島市玉沢)

妙法華寺(みょうほっけじ)は、日蓮宗の本山とされる寺院です。開創後、戦乱により何度か移転した後、元和7年(1621年)に現在の地に移されました。その際、お梶の方の他、同じく家康の側室であるお万の方(蔭山殿・養珠院)らが寺の再興に尽力したと伝えられています。
境内の一角に、お梶の方の実家である太田家の墓域があり、その中に英勝院(お梶の方)の供養塔とされる五輪塔が建てられています。

五輪塔について詳しくはこちらの記事をお読みください。
五輪塔の歴史と特徴をわかりやすく解説します

法然寺(香川県高松市仏生山町)

高松市にある法然寺(ほうねんじ)は、初代高松藩主の松平頼重が、歴代高松藩主松平家の菩提寺として開創した寺院で、境内の「般若台」には、歴代藩主をはじめ松平家一族の墓碑が立ち並んでいます。その中に、頼重の父・頼房の供養塔があり、そばには頼房の養母であった英勝院(お梶の方)の墓碑も建てられています。高さは3.05m、塔身が卵形の無縫塔(むほうとう)と呼ばれる石塔で、塔身には法号と没年月日が記されています。

まとめ

お梶の方は、家政の取りまとめや、養母といった役目を果たすだけでなく、多くの人の地位向上に貢献することで、徳川家を支えました。家康の死後には、多くの側室たちを自分の養女にし、しかるべき家に嫁がせたとも伝えられています。

早くに子どもを亡くした側室でありながら、各地の寺院に供養塔が建てられ、手厚く供養されるほど、信頼を集め慕われたお梶の方。その生き方に想いを馳せ、現地を訪れてみてはいかがでしょうか。

徳川家康に大きな影響を与えた女性については、他の記事もございますので合わせてご覧ください。
偉人のお墓が複数あるのはなぜ?〜徳川家康編
『どうする家康』でも注目!瀬名姫(築山殿)の墓がある八柱神社
『どうする家康』でも注目!家康の苦難の時代を支えた側室・於愛(おあい)の方のお墓

英勝寺への交通アクセス

自動車

横浜横須賀道路 朝比奈ICより 約25分
新東名/新東名高速道路/第二東海自動車道 茅ヶ崎JCT料金所 より約45分

鉄道

JR横須賀線・江ノ島電鉄 鎌倉駅下車 徒歩15分