お役立ちコラム お墓の色々
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【キングダム】秦の戦国最強武将・白起のお墓はどこにある?

「キングダム」や「達人伝~9万里を風に乗り~」など、中国戦国時代を描いた作品にも登場する白起。数々の戦いで圧倒的な戦果を挙げ、秦のために70城以上を攻略し勝利し続けたといわれています。
その一方で、長平の戦いで降伏した趙兵を大量に処刑したことでも知られています。この出来事から、明代の張献忠と並び、「人屠(じんと)/人を屠るもの」という穏やかではない異名で呼ばれるなど、後世には苛烈な将軍として伝えられています。
今回は、秦の天下統一の礎を築き、戦国最強とも評される名将・白起の生涯と功績、そしてそのお墓についてご紹介いたします。
秦を支えた最強の将軍
白起の生年や出自については詳しくわかっていません。戦国時代後期の秦で頭角を現した武将であり、昭襄王(しょうじょうおう)の時代に一兵卒からのたたき上げで、将軍となり活躍しました。
当時の中国は秦・趙・魏・韓・楚・燕・斉の七国が覇権を争う戦国時代の真っただ中でした。その中で西方の大国・秦は、中華統一を目指して勢力を拡大していました。白起は優れた戦略眼と指揮能力によって次々と戦果を挙げます。
連戦連勝の名将
白起の特徴は、単なる個人としての武勇ではなく徹底した戦略的合理性にありました。
戦国時代の将軍の中には、自ら先頭に立って勇猛果敢に戦うことで名声を得た者もいました。しかし白起はそうしたタイプではなく、後代の秦将・王翦と同じように、地形や補給路、敵軍の士気や兵力差まで冷静に分析し、最も有利な状況を作り出してから勝負を仕掛ける知将でした。
その才能は、紀元前293年の伊闕(いけつ)の戦いですでに発揮されています。
この戦いで白起は韓・魏の連合軍約24万(実数は諸説あり)を撃破し、秦の東方進出の足掛かりを築きました。さらに楚との戦いでは、当時の大国であった楚の首都・郢(えい)を陥落させるという大戦果を挙げます。楚は広大な領土と豊かな国力を誇る強国でしたが、白起の攻勢によって大きく勢力を失いました。この功績により、白起は「武安君(ぶあんくん)」の称号を与えられています。その後も魏や趙との戦いで勝利を重ね、各国の将軍たちから恐れられる存在となりました。
記録によれば、生涯で70以上の城を攻略し、数十万規模の敵軍を何度も撃破したとされています。
特に注目すべきなのは、その戦績です。白起には目立った敗北の記録がほとんどなく、その戦略には派手さこそないものの、重要な戦いでは常に勝利を収めています。二千年以上にわたる中国の長い歴史の中でも、これほど安定して戦果を挙げ続けた将軍は決して多くありません。
そのため後世の中国では、白起は韓信・李靖・岳飛などと並ぶ歴史上最高峰の名将として評価されています。軍事家たちの間では「戦神」と称えられ、その名は名将の代名詞ともなりました。
長平の戦い
紀元前260年、秦と趙は長平(現在の中国山西省)で激突します。
当時の趙は戦国七雄の中でも有力な国家であり、秦の中華統一路線にとって最大の障害ともいえる存在でした。両軍は数十万の兵を動員し、国運を懸けた大戦へと発展していきます。当初、趙軍を率いていたのは名将・廉頗(れんぱ)でした。廉頗は秦軍の強さを熟知しており、積極的な決戦を避けながら堅固な防衛陣地を築き、持久戦へ持ち込む作戦を取ります。白起をはじめとする秦軍は攻撃を繰り返しますが、廉頗は一切応じません。戦線は長期化し、両軍とも決定打を欠く膠着状態に陥りました。
そこで秦は策略に打って出ます。「廉頗は老いて臆病になった」「秦軍が最も恐れているのは趙括である」という噂を趙国内へ流したのです。これを信じた趙王は廉頗を更迭し、代わって趙括(ちょうかつ)を総大将に任命しました。趙括は兵法書の知識には優れていましたが、実戦経験はほとんどありませんでした。
この報せを受けた秦王は、ただちに白起を総司令官に任命します。白起は趙括の経験不足を見抜き、決戦の好機が訪れたと判断しました。白起はまず一部の部隊をわざと敗走させ、秦軍が劣勢であるかのように見せかけます。勢いに乗った趙括はこれを追撃しますが、それこそが白起の狙いでした。
秦軍は退路を確保しながら趙軍を深く誘い込み、精鋭部隊によって補給路を遮断します。さらに周囲を取り囲み、趙軍を完全に孤立させました。包囲された趙軍は食糧も水も不足し、飢えと疲労によって急速に戦力を失っていきます。 趙括は何度も突破を試みましたが失敗し、最後は自ら出撃した際に戦死したと伝えられています。総大将を失った趙軍はもはや抵抗できず、ついに降伏しました。
捕虜となった兵士の数は約40万人とも伝えられています。しかし白起は、この膨大な捕虜を養うだけの糧食もなく、解放すれば再び趙軍として戦場に戻る可能性が高いと判断しました。
『史記』によれば、白起は若年者など一部を除き、大半の捕虜を生き埋めにしたとされています。その数は40万人とも言われていますが、実際の人数については現代の歴史学者の間でも議論があります。いずれにしても、この出来事が古代中国史上でも屈指の惨劇であったことは間違いありません。
長平の戦いによって趙は国家存亡の危機に陥り、以後は秦に対抗できるだけの力を失っていきます。そして秦は中華統一へ向けて大きく前進することになりました。しかし、この大量処刑は後世に大きな影を落とします。軍事的には合理的な判断だったという見方がある一方、人道的には極めて苛烈な行為として批判する声も少なくありません。
こうした功罪両面を持つことから、白起は「戦神」と称えられる一方で、「人屠」という恐ろしい異名でも語り継がれているのです。
栄光の果てに訪れた悲劇
長平の戦いによって趙軍は壊滅的な打撃を受けました。
秦にとっては長年の宿敵を倒す絶好の機会であり、白起もまた勝利の勢いを生かして趙の首都・邯鄲(かんたん)を攻撃すべきだと進言します。長平で主力軍を失った趙にはもはや十分な抵抗力がなく、この時に総攻撃を行っていれば、趙を滅亡寸前まで追い込めた可能性もありました。
しかし秦国内では、長期にわたる戦争による疲弊を懸念する声が上がっていました。また、宰相・范雎(はんしょ)と白起の関係も決して良好ではなく、白起の功績があまりにも大きくなり過ぎることを警戒する勢力も存在していたといわれています。
さらに趙は必死の外交工作を行い、秦との講和に成功します。その結果、邯鄲への総攻撃は中止されることになりました。この決定に対し、白起は強く反発したと伝えられています。白起は「今攻めなければ趙は立ち直る」と主張しましたが、その意見は受け入れられませんでした。そして白起の予想は的中します。
講和によって時間を得た趙は国力を回復し、魏や楚など他国との連携を進めて再び抵抗態勢を整えていったのです。その後、秦王は改めて邯鄲攻略を命じます。しかし白起は出陣を拒否しました。これは王命への反抗というよりも、「すでに好機を逃しており、今の状況では勝利は難しい」という軍事的判断だったと考えられています。
実際、白起は長平直後の攻撃中止によって戦略上の優位が失われたことを見抜いていました。ところが秦王はこれを快く思いませんでした。もともと白起は長年にわたり輝かしい戦果を挙げ続けており、その名声は王をもしのぐほどだったともいわれています。そこへ范雎らの讒言も加わり、白起は次第に王の信頼を失っていきました。
やがて白起は武安君の爵位を剥奪され、都・咸陽から追放されます。 さらに紀元前257年、秦王は白起に自害を命じました。『史記』によれば、白起は王命を受け入れ、自ら剣を取ったとされています。その際、「私は趙兵を大量に殺した。その報いを受けるのだろう」と語ったという逸話も残されていますが、史実かどうかは定かではありません。しかし、長平の戦いで数十万ともいわれる兵士を死に追いやったことが、白起自身の心に重くのしかかっていたと考える人も少なくありません。
こうして秦最強の将軍は、戦場で敵に敗れることなくその生涯を終えました。 数々の強国を打ち破り、中華統一への道を切り開いた名将の最期は、敵軍の矢や剣ではなく、自国の政治闘争によるものでした。
白起のお墓はどこにある?
白起の墓は、中国陝西省咸陽市の東郊、渭河(いが)の北岸にある任家咀(じんかそ)にあります。この場所は秦の時代には「杜郵(とゆう)」と呼ばれていました。
現在、墓は「三五三〇工場」の社宅敷地内にあり、東側には使われなくなった陸上競技場が隣接しています。墓の周囲は塀で囲まれ、その外側には木々が生い茂っているため、普段はほとんど人が訪れることのない静かな場所となっています。
墓は円墳で、基部の直径は約19メートル、墳丘の高さは約8メートルあります。1970年、3530工場の建設工事中に墓道が発見され、武器や佩剣(はいけん)など数点の遺物が出土しました。1982年には、白起墓は陝西省人民政府によって重点文物保護単位(重要文化財)に指定されています。
2011年11月1日には、世界白氏宗親会および世界白氏総商会の主催により、韓国・シンガポール・マレーシアなど海外の白氏一族や、中国17省・市から集まった白氏宗親の代表が墓前に「秦武安君白起墓」などと刻まれた石碑を建立したことで、それまで荒廃していた墓前は大きく整備され、現在の姿へと生まれ変わりました。
【白起墓】中国陝西省咸陽市興平市
長平古戦場は現在の中国山西省晋城市高平市に位置しています。紀元前260年、白起率いる秦軍と趙軍が激突した戦場跡であり、中国史上最大級の会戦の舞台として知られています。
【長平古戦場遺跡】中国山西省晋城市高平市永録郷周辺
まとめ
白起は、中国の戦国時代を代表する名将でした。数々の戦いで勝利を重ね秦の中華統一への道を切り開きました。その軍事的才能は現代でも高く評価されています。
一方で、大量の捕虜を処刑したことから「人屠」とも呼ばれ、手放しで英雄と評することもできない複雑な側面も持っています。だからこそ白起は、二千年以上を経た現在でも多くの人々を惹きつけているのかもしれません。『キングダム』でも秦の六大将軍筆頭として描かれており、その存在感は現代の読者にも強い印象を与えています。
白起の墓前に立てば、中華統一への道を切り開いた一人の名将の栄光と苦悩を感じることができるかもしれません。
お墓は、亡き人を悼む場であると同時に、その人物が生きた時代や想いを現代へ伝える場所でもあります。歴史上の人物の墓を訪ねることは、その人の人生に触れ、自分自身の生き方や家族とのつながりを見つめ直すきっかけになるかもしれません。
お墓の継承や建て替え、墓じまいなどに迷った際は、石材店へ相談することも一つの方法です。
お付き合いのある石材店が特にない場合は、以下の記事を参考に、ご自身に合った石材店を探してみてはいかがでしょうか。
マナーに十分注意した上で、いろいろなお墓に参ってみてはいかがでしょう。
白起が仕えた秦王・昭襄王の曾孫であり、中国史上初めて中華統一を成し遂げた始皇帝(嬴政)。白起の後を継いだ知将・王翦、そして廉頗将軍とともに秦の侵略から趙を支えた藺相如、また生きた時代は違うものの戦えば白起より強かったのでは?と称される趙の名将・李牧に関する記事もあります。あわせてお読みください。